Qu'est ce qu'est le danseur étoile? d'après Aurelie Dupont

新エトワールユーゴ・マルシャン をゲストに迎えてのLa grande table(というFrance Cultureのラジオ番組)にて、オペラ座ディレクター オレリー・デュポンが考える「エトワールとは」というくだりがあって面白かったので字起こししてみました。

Qu'est ce qu'est le danseur étoile? d'après Aurelie Dupont "Pour moi un excellent danseur, c'est quelqu'un qui peux être danseur étoile. C'est une personne en scène qui ne danse pas, mais qu'on voit plus que les autres. C'est le petit plus qui fait la différence et on sait pas d'où ça vient, ça peut être... prendre la lumière, ça peut être... ça peut être rien, c'est inexplicable pourquoi votre corps est attiré vers quelqu'un et pas vers quelqu'un d'autres, c'est pas forcément une histoire de niveau de danse, parce qu'il y a des gens qui ont ça qui dansent peut être moins bien techniquement qu'un autre ou qu'un autre, mais cette petite chose magique, c'est l'aura, c'est l'âme, c'est l'incarnation, c'est tout ça, c'est inexplicable, et en même temps c'est dégueulasse (rire) parce que tout le monde ne l'a pas. Donc, voilà, c'est ça. "

端的に言ってエトワールとは、他の人が持ってないちょっとしたプラスの「何か」を持ってる人だとのことですね。それは必ずしも技術的なものではなくて、舞台上でどうしてもその人に目が行ってしまう「何か」がある人。説明できないのよね、ってなんども言っていますがまぁそうでしょうそうでしょう、主役ってそういう人がやらないと観てる人もつまらないですもんね。
最後の"C'est dégueulasse parce que tout le monde ne l'a pas." が笑えます。そう、誰もが持ってるものじゃない。

代役で急遽渡日しての舞台で任命されたマルシャン。それゆえ全く任命は期待もしていなかったし本当に驚いたそうですし、もちろん嬉しくて感動したとのことですが、今までの道のりを共有して来た家族や友人と共にその喜びを分かち合えない場所にいたので・・・と決して失礼にならない言い方をしながらもやっぱり本拠地で任命して欲しかったのだろうなぁという気持ちが言葉の端々から伝わってくるお話でした。








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# by chihiroparis | 2017-05-20 01:45 | ballet+danse | Comments(0)

新エトワールAROPインタビュー

2016年末に数日の間隔で任命された新エトワール二人、Germain LouvetとLéonore BaulacのAROPによる1時間強に渡るロングインタビュー。話題は学校からカンパニーに入ってから今までの歩み、任命時について、今後について、などなど。インタビュアーはLaura Capelle。

学校からカンパニーに入って数年は代役ばかりで舞台に上がる機会がないのだがその間のことを「非常にストレスフル」だけれども「ストレス管理を学ぶ」だとか「ダンサーたちをよく観察する非常に学びの多い期間」と捉えたりと優等生のお二人。カドリーユが長かったレオノール(5年間)は、コリフェに上がった時のコンクールを受ける前は、もうこれでダメならソリストとしての機会を求めて他のカンパニーのオーディションを受けよう、と思っていたとか。
二人にとって初めてのドゥミ・ソリストの役(Fall River Legend)では二人で組んだPDDがあったとかで、その後ケースマイケルのRainで、そしてミルピエ時代の大抜擢はいうまでもないが、3歳違いながらキャリアをずっと隣で歩んできた二人。2014年のくるみ割り人形の主役抜擢の際コーチについたのはオレリー・デュポン。オレリーの教え方はどうだったか?の問いに、「音楽性についてよく言われたし、あとは動作の意味を全て説明された」とのこと。今はディレクターとなったオレリーはクラスレッスンにも顔を出しているとのことだが、クラスの際にもテクニカルな面をその都度注意してくれるらしく、「それによってどのようなものを彼女が求めているのかがわかる」とか。最近コールドのレベルが引き締まっているのは間違いなく彼女がディレクターになったからかと。鉄壁の技術を持っていた人が上に立っていたら誤魔化しはきかない。

さて、最も興味深かったのはフォーサイスについて二人が語るくだり。「クリエーションは長期に渡るのに毎日いつもユーモアに溢れて楽しい人」「我々のパーソナリティー、やり方を見抜いて、それを最大限まで引き伸ばしてくれる」「とにかく限界までやるんだけど、そのことにやってる方は気づかない。終わったあと疲れている(ことでそれがわかる)んだけど。」アニエス(ルテスチュ)もフォーサイスについて同様のことを語っていたことがある。彼のクリエーションの鍵がちょっとわかるような、そんな証言。

ちなみに2016年11月の内部昇進コンクールでプルミエ・ダンスールに上がったジェルマン、翌年1月に昇進が有効になる前の2016年12月28日に白鳥の湖のジークフリードを踊って(相手はリュドミラ・パリエロ)エトワール任命になったので、飛び級か?とも言われたものですが、「僕一応それでもプルミエの契約書にサインしたんですよ。12月27日に。翌日あれ冗談!?て事務局と言ってたんですけど。」ってケラケラ笑って話していました。


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# by chihiroparis | 2017-05-04 11:53 | ballet+danse | Comments(0)

ハーブ、スパイス料理などなど

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キャロットラペに大好きなフェンネルを混ぜたサラダ。フェンネルの使い方を教えてくれたのはイタリア系フランス人の友人。懐かしい。
ドレッシングはマスタード、はちみつ、バルサミコ、塩胡椒、オリーブオイル、ちょっぴりクミン(種の)。
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トマトファルシを作る時のくり抜いたトマトの中身はカレーに。少量の油で玉ねぎのみじん切りを炒め、多めのバターを足してインディアンスパイスミックスを炒めて香りを立たせて、今回はちょうどパクチーとフェンネルがあったのでたっぷり入れて、くり抜いたトマトの中身、生姜すりおろし、塩で味を整える。隠し味にちょこっとお醤油を垂らす。豆乳を最後に加えてまろやかに。
スパイス類は15区の大好きなDélice d'orient というレバノン系のオリエンタル食材屋さんでいつもまとめ買い。日本は少量が小瓶に入って高いけれどここでは袋づめで安いこと安いこと。多文化パリの良さを満喫。
海老を足したら美味しかった!
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# by chihiroparis | 2017-05-03 20:01 | cuisine | Comments(0)

Tomate farci

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久々Tomate farci.
レストランでは出てこないので知られていないかもしれないですがフランス家庭料理の定番。
トマトの中身くり抜いてお肉詰める...だけ。
昔ホームステイ先のおばあさんに教えてもらいました。その後パリでよくお邪魔してたお隣さん一家にも作ってもらってたっけ。
Charcuterie に行くとソーセージの詰め物、ハーブの効いた豚肉が入って売られています。
わたしは牛で作るのが好き。
Herbes de Provence をたっぷり、塩胡椒にニンニク、卵、つなぎにパン粉や小麦粉を入れたり。ちょっとパプリカ粉入れることもあればクローブだったりオリエンタルミックス入れることもあり。手間をかけたいときはハンバーグ風に炒めた玉ねぎを入れても良いし。
分量はいつも適当すぎるしハーブやスパイスもその日の気分なので書けません笑
180℃で60分くらい放置。楽チン美味。


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# by chihiroparis | 2017-05-01 23:10 | cuisine | Comments(0)

Confiture de fraise

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規格外の小さな苺が安かったのでたくさん買ってジャム作り。
お部屋に甘い香りが充満して気持ちがふっと軽くなる。
クローブをちょっと入れてスパイシーにするのが個人的には好み。



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# by chihiroparis | 2017-04-23 13:41 | cuisine | Comments(0)

キリアンプログラム Programme Jiri Kylian @Garnier

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↑1978年と古い作品だけれども初めてオペラ座のレパートリーに入ったSymphonie de psaumes

2016年末のオペラ座はガルニエでイリ・キリアンプログラム。名作Bella Figura、Tar and feathers、古い作品だけれども初めてオペラ座のレパートリーに入ったSymphonie de psaumesの三作品の上演を役替わりで二日間、キリアンを堪能。

二番プリエの多用というところで自分の中でキリアンはエクと比較して見がちなのだが、エクの二番は開放的で、意志は開いた腿よりもどちらかというと外を向いた膝の指し示すところにあり、一方、キリアンの二番では太腿外側(二番の時の上側)に力がないと発信されるものがないなと感じるのだが、その太腿の筋肉の踏み込みの力から発せられるものは非常に内省的な性質があるところがあり、二つは動作上は似ているようでいて全く違うところが面白い。

そんなことを思ったのは2000年代にオペラ座でキリアンを見ていた時には気づかなかったことで。その後リヨン・オペラ座を見て、またパリ・オペラ座での上演を見て、思ったことだったりする。
リヨンのダンサーよりパリ・オペラ座のダンサーの方がよほど形はきれいな体でコルセット姿もきれいなのだけど、クラシックを主のレパートリーとしているので体の重心が上に行きがちであり、そのため、太く力強い脚を持ったリヨンのダンサーが、床を捉えた時に動く太腿の筋肉から発信するメッセージ、これがオペラ座ではないように感じられた。(それでも一日目の若手に比べ、二日目に見たキャストでは、レティシア(ピュジョル)、ドロテ、アリス、とコンテを得意とするベテランエトワール揃いで、見ごたえがあったが。)

Bella Figuraを見ながら思ったのはキリアンの捉える人間は言ってしまえば全て「ただの」肉体でしかないということ。魂は神から与えられたもの。デュオの踊りを見ているとデュオ間での感情の交流というものはなくてすべては神聖なる神との交信、そんな気がする。

これが彼なりの人間の性への達観というか。感情的に距離感があり、全ては所与のものという冷めたものを感じる。Bir-th-dayのようなブラックなユーモアに溢れた作品をなぜ彼が作るのかなんとなくわかる。

身体がただの有機体として捉えられてる感じとでもいうのか。人間の感情表現にこだわる振付家とは全然違うし、そういう意味で彼はむしろアナトミー的でフォーサイスなどに近い感性を持っているのではないかと今回思った。

Symphonie du psaumesもこの流れにあって、大勢のダンサーが互いに身体的には交流するのに感情的には全く直接向き合っていなくて全員が神を向いて踊っている。神聖なる場には人間同士の感情は挟んではいけないらしい。あくまで身体が音楽を受け入れる客体であるようなところ、主体的な感じが舞台上にないのが特徴的。
ちなみに70年代のこの作品は言語的にまだとてもクラシックでオペラ座にはこちらの方が向いていた。(NDTのガルニエ公演で以前見たことがある。)

となるとTar and feathers(タールをかけ羽根を浴びせた刑罰)のような、「人間の二面性を描いた」という作品のように神を介さずに人の感情に切り込む手法は彼にはあまり長けていると思えず(そもそも最近の作品は無機質の極みか逆にこういう作品かのどちらかで私は好きではない)つまらなかった。舞台には3mくらいの脚をピアノにつけて高くしたところでピアニストが弾くというもので美術的には面白かったが、それ以上のものはなかった。

そうそう。Bella figuraを見ていると、胸をハサミでスーッと切り心臓を取り出して、冷たい大理石のテーブルの上で交換しあう、その心臓がドクドクと打つ音だけが耳に入るという、愛の場面なのだけど感情が排されていてそこには肉体的交信だけという神聖な場面をどうしても想像してしまう。愛する相手を感情が全て消え去るほどに心臓の音だけで感じることって、ある。


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Tar and feathers
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Bella Figura

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# by chihiroparis | 2017-04-20 20:29 | ballet+danse | Comments(0)

「愛と精霊の家」Noism0 @新潟りゅーとぴあ

Noismも定期的に見ている。私が日本のカンパニーでもっとも興味を持っているカンパニー。欧州のトップカンパニーでネオクラシック寄りコンテンポラリーの今や巨匠と呼ばれる人たちのもとで一線で活躍した金森穣氏が、その体験を日本の身体にきちんと置き換えた上で、新しいものへ挑戦する姿勢での創作はいつも目が離せない。
2016年10月Noism0による「愛と精霊の家」。
見たい見たいと思いつつなかなか上演がないため本拠地新潟りゅーとぴあまで見に行くことに。
Noism0は井関佐和子、山田勇気というNoismメンバーに、ディレクターの金森穣、ゲストの元NDT小尻健太、演劇ゲストで良く出ているSPACの奥野晃士、の五人によるユニット。
作品は金森穣と井関佐和子によるプライベートユニット、unit-Cyanが発表した「シアンの家」を基に愛と死がテーマの作品。男性4人は男の愛の多面性を、女性(井関)は人形・舞踊家・妻・母になれぬ女を演じ、女の愛の孤独を象徴するとのこと。
舞台美術は赤いカーペット敷きに椅子やテーブル、トルソー、鏡など。照明が上から降りる仕組みが終盤でもっとも効果的に使われる。映像や鏡を使って世界を様々に挿入しながら話は進む。

冒頭ソロで久々に見る金森さんの踊り、相変わらずのカリスマ性が健在で嬉しい。出てくるだけで華のある人。
でもなんと言ってもこの作品の見せ場は後半小尻さんと井関さんのデュエット。「二人の間の愛が」なんて書くと、陳腐な言葉であの場面を傷つけてはいけないという気持ちになる。二人の間に溢れ出すものが伝わって来て終盤までボロ泣き。
小尻さんはNDT時代何度かパリ公演で見たけれど、たまたまキリアンの割と無機質な作品で見ていたので、ストーリー性のあるこの作品で見て見て、ものすごい色気が溢れていることに驚く驚く。井関さんへの愛おしい気持ちが身体から、動きから、溢れている。この人をもっとロマンチックな作品でたくさん見たい。
昔インタビューで井関さんが、穣さんのレベルに達するのにすごく苦しい想いをしたことを吐露していたけれども、今Noismの表現を背負って立つ井関さんの踊りに対峙することができて、彼女のカリスマ性を活かせるのは小尻さんのこの踊りくらいカリスマ性のある踊りでないとダメなのだと思った。(もっとはっきり言えば、今のカンパニー内にはまだ本当の意味で井関さんの相手をできるダンサーがいない。)


Noism0は、たぶん師匠のキリアンがNDTを1〜3にしてそれぞれの表現を追求している中の1の活動にインスピレーションを得たのではと想像する。演劇の入れ方とか。年齢を重ねたダンサーならではの表現への問いとか。

結局でも私が惹きつけられたのは現役の身体だった。小尻さんと井関さんの。重ね合うように踊る時にこちらもその呼応の渦に巻き込まれるような圧倒的なデュエット。

照明の枠(たくさんの電球からなっている)の部分が二人のデュエットの時に下まで降りて来て、身体からただただ愛情だけがその光に照らされて昇華するようだった。そこでしかし女は堕胎をし、男は消える。最後の井関さんのテーブルのソロ、細い身体から悲しみが絞り出されるようだった。

動きが直接的に感情に、体に、訴えかけて来るため、ストーリーはあるのだが、その中にいることすら忘れている言語化できるものではない「何か」が直接的にこちらの感情に訴えてくる時の感動の大きさ。ひたすらダンサーの身体から溢れたり絞り出されたりする感情をストレートに受け止めて、共鳴して、震えて、泣いて、自分の人生の中での同様な感情、出来事や人を思い出して...と、感情を舞台に委ねて心がただただ動かされる素晴らしい1時間の体験。「舞踊を見る醍醐味」が詰まった作品。再演を熱望。



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# by chihiroparis | 2017-04-09 11:40 | ballet+danse | Comments(0)

「BIT」Maguy Marin @Théâtre du Rond-Point

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もう一つ2月の舞台。
Théâtre de la ville工事中につきThéâtre du Rond-PointでMaguy Marin。いやー・・・フランス人こういうのほんと好きだよね・・・満席。
舞台には7枚の板というか坂が設置してある。男女7人ほどのダンサーが手を繋いで出てきて、リズム系の音楽に最初は簡単なステップを踏んでいる・・・だけなのだが、これが段々と板を登りながらだったり走ったりと激しくなっていく。
真ん中の板から赤い布が降りてきたと思ったら男女が皆全裸で(男性はかろうじて腰に布巻いてるけど)寝た状態で肉体を絡ませながら降りてきたり、二人一組でオーガズムを連想させる動きをしたり。かと思うと一人の女性が板の上に男性に追い詰められるように登って後ろに落ちるなどレイプによる暴力と自死を想像させるような箇所もあり。最後はまた皆ちがう服着てステップステップ、ずっととにかくビートに乗せてステップを踏む1時間。
特にストーリーやプロットはなくてリズムから振り付けが始まったとはマギー・マラン談。
ルードラ出身だけどダンツシアターの影響も大きそうだなぁと思いながら見ていた。衣装はエクのいくつかの作品(アパルトマン等)のような多色(シビラのような)で普段着的。途中着替えて、最後は色味少なめの衣装で終わる。

いやー、どちらかというとかなり苦手、苦手、苦手。面白いと思う人がいるのはわかるのだが。一つは言語的(ステップを踏むだけというのが大方)な点。この手のものが面白くなるには踊り手の身体に魅力がないと私の場合惹かれない。もう一つは演劇的な側面における性の表現。どぎついものが苦手というわけでは決してない。しかしこの作品における表現はまったく共感もできなければ嫌悪感という形で強く訴えかけて来るものでもなく。
ちなみになんだかフランス映画を見ているような感じ。とてもフランス的作品だと思う。そういえばスイスの演劇ユニットZimmermann とde Perrotがモロッコのサーカス集団に振り付けた「Chouf Ouchouf(シュフ・ウシュフ)」の世界観とも似ていた(※こちらは性的な場面は全くない)。なんだろう。なんだかよくわからないけど南欧から地中海にかけての文化的なものを感じるということを書き留めておこう。

劇場は今まで縁がなくて初めて中まで入ったのだが、キモ可愛い劇場キャラクターといい内装といいキッチュでとっても好み。今度また中のサロンでお茶でもしに来たいところ。
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書店は演劇・コンテンポラリーダンスの資料が充実している。
こちらもキモ可愛い絵に一目惚れして子供用の戯曲を一冊買った。「痩せっぽっちの女王」とでも訳せばいいかな。
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# by chihiroparis | 2017-04-09 11:03 | ballet+danse | Comments(0)

「Tree of codes」Wayne MacGregor

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2月。ガルニエがBoite de nuitに、とはnouvel'obsの評だったか。
心臓がバクバクして大興奮の1h20!! "「人間の体は最も面白いコンピューター。その体とコンピューターとがコラボしたらすごいいいよね」というコンセプトの作品。2015年マンチェスターフェスティバル初演。今回はオペラ座+マクレガーカンパニーダンサー。

舞台は運動解析をするときに体につけるセンサーのような光をつけたダンサーたちが真っ暗な中踊るところから始まる。ここでもうすでに身体も一つのコンピュータのようで工学的なもののように思えてくる。振付はいわば「コンピューターが二足歩行ができるようになりました、アシモ君です」という機械の新たな可能性を探るサイエンスの観点を人間に適用したようなもので、「人体がこんなことできます!」というように人体の可能性を探っているかのよう。特に動きのArticulationの可能性を探っている。こんな風に動きと動き、関節と関節がArticulerできたりするよ人体!という"つなぎの面白さ"や可能性の追求。みたこともない形で滑らかに踊るダンサー。人体の関節の神秘。
"Anatomique"で"Biologique"で"Scientifique"という言葉が浮かぶ。有機体の神秘!しかし"神秘的"と言っても多くの西欧の現代の振付家の作品に必ず香る神の存在(に対する人間の存在)は全くなくてとてもプラグマティックな感じがするのが面白い。サイエンティストに絶対見て欲しい作品!

久しぶりに大活躍のジローとベランガールが神がかっている。ジローの脚はかつて「どんな振付家も彼女と一度仕事したいと思っている」と誰かが言っているのを読んだことがあるけれど、その圧倒的存在感は健在。彼女が脚を上げるだけでそこにすでに人体の新たな可能性が感じられる。ベランガールは作品の真髄のArticulationが抜きん出ている。彼の優れた音楽性も相まってその滑らかかつ動きは有機体の神秘を感じさせる。コンピューターシミュレーションの未来系のような、とでも言ったらいいのだろうか。
マクレガーカンパニーのダンサーに至ってはさらに上を行っていてもはやこのひとたちが人体には見えない・・・。ものすごく高度なコンピューターにすら見える。でも冷たい感じがしないのがマクレガーの持ち味。人間の感情は全て排しているけど有機体の暖かさみたいなものが漂っている舞台。
身体の動きの脱日常性とか脱規範とかがideologiqueな話に感じてくるようなカラっとした工学的コンテンポラリー、好きすぎて信者になりそうです。

マクレガーといえばちょうど今月ロイヤルバレエの「ウルフ・ワークス」が映画館上映されていているのが大評判だった。普段なら間違いなく見に行ってるところなのだけどいろいろかなり参ってて行かれず。DVD化を切に願いたいところ。

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# by chihiroparis | 2017-04-07 14:43 | ballet+danse | Comments(0)

「人生タクシー」Taxi Teferan (Jafar Panahi)

ジャファル・パナヒ監督作品。
4/15から日本公開だという記事をみて、あ、これフランスで2015年に見たなぁ、記録しておこう、と。フランス題は「Taxi Teheran」。
パナヒ監督の作品は「Sang et Or」をARTEで見たのがきっかけで知った。
社会問題を市井の人々の視線から鋭く描く作品ゆえイラン当局に国内での撮影を禁止された監督は、今作で自らがタクシー運転手に扮してテヘラン市内を走り、車内に設置したカメラで乗ってきた人々との会話を撮影するという斬新な手法を取った。イラン情勢を痛烈に批判するようなエピソードばかり。俳優なのか本当に偶然乗ってきた人なのかわからないけれどもとにかく面白くて笑いすぎて涙が止まらず。奇才だ。どこまでがフィクションなのかさっぱりわからなかったのだが、どうも今回日本での上映にあたり出ている記事によれば一部のみ脚本付きだったそうだ。
ベルリン国際映画祭金獅子賞受賞作。

会話から見えるイラン社会。そういえば台所から見えるイラン社会イラン式料理本 」)も面白かったなぁ。制約がある中で鋭く社会が描かれる。



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# by chihiroparis | 2017-04-07 08:32 | cinema | Comments(0)

Le songe d'une nuit d'été 真夏の夜の夢

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バランシンが1962年、NYCBに振り付けた作品。オペラ座では今回初のレパートリー入りとなった。

文学、芸術の力ってすごいよねとつくづく。男女のなんだかんだなんて全て神様のいたずらで起こってるようなもんね、悩んでないで笑い飛ばしていこうね、俯瞰してクスりとして、はい人生楽しもうと思わせるシェークスピア真夏の夜の夢バランシン流。とっても幸せで優しい気持ちになる観劇後。
バランシンがこんな作品を作ってたのも驚きだった。子供も大人もクスクス笑いながら楽しめる、でも誰かが言ってた「ディズニー的」というのとは全然違うやっぱりこれは上質なバレエ。
こんな愛に溢れた素晴らしい作品があるんだよとプログラムに入れて初めてオペラ座のお客に紹介しようとしたミルピエはやっぱりたくさんの作品を見ていると感じるし、本人の作品を推しすぎたというあの点がなければ、本当にディレクターとして素晴らしい選択眼があったと思う。今さらですが。
演劇的要素の強い一幕で話はまとめてしまい、それとバランスを取るかのように、結婚式という設定でディベルティッスマンだけで踊りを見せる二幕。眠りの森の美女など19世紀クラシックバレエの構成と同じ。大変見ごたえのある作品、これからも再演を重ねてほしいと感じた。
衣装はクリスチャン・ラクロワ。厳しいバランシン・トラストの制約の中でさすが、の美しい衣装たち。

配役だが、日本公演が重なっていたため、日本組以外のカンパニー総出という印象。放映用に録画のあった日にはベテラン勢多めでさすがの演技力、他の日では若手起用によりいきいきとストーリーが描かれた日もあり(特にパックが若いと、動きがすばしっこく、観客の笑いを誘う)、どの日も違う味わいがあって楽しめた。驚くほどどの配役も本人の良さが引き出されていて、ここ最近の配役はどの作品でもそうなのだけれども、ディレクションが実によくダンサーのことを見ているし理解しているし、愛がある配役だなということ。オペラ座に80年代以来の黄金期がまさに訪れつつあることを感じる。
直前に日本でエトワール任命されたユーゴ・マルシャンの類稀な演技力など各ダンサーについては色々書き留めておきたいところだがきりがないのでやめておくが、どうしても記録しておくとすればレティシア・プジョル(Hermia役)。技術力は誰よりも抜きん出ていたダンサーがドンキホーテのキトリでエトワールに任命され、その二年後のドンキホーテに出てきた時には、任命された作品とあって気負いすぎていたのか歌舞伎調ですらある見栄切りの多い踊りに辟易すると同時にその後が心配になったものだが、今は素晴らしいコメディエンヌだなとつくづくこの作品で再認識した。

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# by chihiroparis | 2017-03-29 01:01 | ballet+danse | Comments(0)

Roméo et Juliette, Angelin Preljocaj

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シャイヨでプレルジョカージュのロミオとジュリエット最終日に滑り込み。ノエルなのに完売満席なのもわかる、他のどの版にも似ない唯一無二の素晴らしい作品だった。最近の彼の作品は好きではないのどけど、これはル・パルクよりさらに遡ること1990年作と聞いてぜひ観たかった作品。初演時はリヨンオペラ座バレエのために振り付けたものを1996年、自身のカンパニーを持ってからかなり作り変えたとか。
プレルジョカージュによれば、原作は2家族に階級差がないのだが、本作では政治社会的コンテクストの強いものとし、その中での2家族の対立をしっかり描きたかったとのことから、ジュリエットを独裁者の娘、ロミオをホームレスとした、とのこと。独裁者とはチャウセスクをイメージした、とのことだが、これは彼がアルバニア系フランス人であることからこの作品を作った90年の東欧の状況が大きく影響しているだろう。しかし現在この作品を見たときに私が感じたのは、その設定よりもイスラエル・パレスチナ問題を強く想起させた。舞台美術に印象的に壁が使われていたこと、兵士と対立するマキューシオがアラブ系のダンサーを使っていたことからかもしれないが、それだけ現代の観客にも訴える力のある普遍的な問題提議を持った作品だということだろう。
舞台美術や衣装から受ける全体の印象が非常にフランスのBD的なのが斬新で、村の女性の服は銀河鉄道999のメーテルみたいだし、兵士やティボルト(彼が独裁者という設定)は完全にBDの実写版という感じ。調べてみたら舞台美術・衣装を担当したEnki BilalはBD作家でもあるとのこと。
彼の振付の特徴としては全篇とにかく「踊り」であるということ。どういうことかというと、プレルジョカージュがインタビューで曰く「他の版はパントマイムが多いと思う。私は振付家としてダンスにこだわりたいし身体でストーリーを語ることに興味がある。ダンサーは死の場面すらダンスと動きによってドラマトゥルギーを生きるのだ」という。その通り、演劇的マイムが極力排されあくまでダンスで表現される、動で表現される死。
見せ場の一つ、いわゆるバルコニーの場面は、性行為を想像させる激しいもので、他のバレエでは時代設定が中世に置かれ、淡いながらも強く惹かれ合う10代の若者の恋、と描かれているところ、現代であればこんなものかなと説得力があり。ジュリエットの衣装が透け感のある白い布の短パンとビスチェにシャツを羽織っているのだが、これに舞台袖から横向きの照明を当てて布が透けさせることで、舞台美術に用意することなく月明りの下にいることをイメージさせていたところが印象的だった。
死の場面は先ほどの彼の語りにあるようにパントマイムが排されダンスで激しく悲しみが表現される。圧巻の最後に涙。全体的に身体表現の面白さを再発見させてくれる名作だと思った。最近の作品とは全然毛色が違うものだが再演しようと思った経緯がぜひ聞きたいところ。
終演後劇場の人がカウンターに山積みのクレマンティーヌとショコラを「みなさん取って行ってね〜 Joyeux Noel!!」としてくれていてNoelの夜の公演を見に来たお客さんへの温かい心遣いに嬉しくなった。
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# by chihiroparis | 2017-01-13 17:38 | ballet+danse | Comments(0)

Défilé du ballet de l'Opéra de Paris, lors de Gala d'ouverture de la saison 16/17

いつも感想ばかりだけど、思い立ったので普及活動的に解説を書いてみたりしてみます笑
(このビデオ見たら気分が高揚してしまって思わず)

「デフィレ」はその名の通りバレエカンパニーのダンサーたちが順番に歩いてご挨拶をするもので、シーズン開幕時や特別なガラの時のみ行われるとても華やかな出し物です。これは昨夜の今シーズンの開幕ガラのもの。ただ歩いてくるだけなのにダンサーの鍛錬された身体はそれだけで多くのことを語ってくれて、見るたびに鳥肌が立ちます。生で見た時には圧倒されて何度も涙したことも。
普段は舞台の奥の壁となっているところを取り払い、舞台裏にある鏡張りで美しい控えの間を使い奥行きをたっぷり持たせて行います。
歩く順は、女子→男子で、ヒエラルキーの一番下から。バレエ学校の最下級生→上級生、それから、団員(カドリーユ・コリフェ・スジェ)の間にプルミエールが二人ずつ、最高位エトワールは一人で(任命された月日が若い人から順)。拍手とブラボーの大きさが人気の度合いを語ります。エトワールになかなか任命されないけれども人気の高いプルミエール/プルミエには、そろそろ任命してくれよとディレクションにアピールするかのごとく、大きな拍手とブラボーがかけられます。
最後全員が勢ぞろいでポーズをとるところは言葉にならないほど美しく感動的なもので、その中心となる人=最後に歩いてくるエトワール=最もエトワールになって長い人、は重要な役割です。現在真ん中を務めるマチュー・ガニオは、二十歳そこそこで上から三番目のSujetだった時に階級を飛び越えてエトワールに任命されたためにこれからしばらく真ん中にい続けることでしょう。おそらく任命はこういう位置付けも考慮されていて、彼はオペラ座の顔としての活躍が期待されていたのでしょうね。(実際顔として活躍しています!)

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# by chihiroparis | 2016-09-27 21:22 | ballet+danse | Comments(0)

Mass b de Béatrice Massin @théâtre national de Chaillot

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シャイヨ劇場でBéatrice Massin による Mass b。
フランスバレエの祖、ルイ14世を描いた映画「王は踊る(Le roi danse)」の振付も担当したバロックダンスの研究家であり振付家の第一人者、Massinは、近年、コンテンポラリーダンスとバロックダンスの接点を探すべく精力的に活動しているとのこと。今回の作品は、各々違った種類の舞踊教育を受けてきた若手ダンサーたちに、バロックダンス及び音楽から受ける印象についてディスカッションをしながら創作を行ったとのことだ。10人の明らかに受けてきた教育が違うとわかる体つきのダンサーたちによる舞台。

前半はなんだか意味のわからない動きも多いが、5-5に分かれて群舞のようにして駆け抜けるように動く時が面白い。Pasがワルツだったりフォーメーションがバロックダンスのそれを大きくしたようなものだったりしたものだということがわかる。後半に向けて段々と動きが大きくなり、彼らはほぼ走りっぱなし(!)となるのだが、あくまでバロックのPasなのにバレエや現在のコンテンポラリーダンスのようなダイナミックな規模の動きになっていき、最高の盛り上がりを見せる。この辺りになるとダンサーが興奮を表しているのか奇声を発したりしている(バロックダンスって掛け声とかはあるんですかね)。まさに「(当時より訓練法が進化した)現代の舞踊身体による現代的バロックダンス」で、こうなると(前半眠かったのが嘘のように)とにかく面白い。

バロックダンスの現代的理解というとヌレエフが振付たBach Suiteがある。昔Kader Belarbiで見たことがあるが、今思うとあれは現代的理解というよりそのままバロックダンスの新作として作ったものとして位置付けられるかと思う。

余談だが、バロックダンスについては全く無知だったのだけど、一昨年オリビエ・フーレ先生(CNSMD出身のダンサーでありながらバロック音楽で博士号を取り現在大学教授であるという方である)の講演通訳をしたことがきっかけで大きな興味を持った。その話をバロック音楽には随分凝っている弟に話したところ、いろいろとレクチャーをしてくれたのだが、そこでMassinの名前を聞いていたので、今回、お?あの人だ、とアンテナに引っかかって見に行ったのだった。行ってよかったわ。
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# by chihiroparis | 2016-03-16 23:24 | ballet+danse | Comments(0)

San Francisco Ballet - Swan Lake

オペラ座からMathilde Frousteyが移籍したりと何かと気になっていたSan Francisco Balletを念願叶って観劇。オデット/オディールはこれも念願のSofiane Sylve、お相手のジークフリートはスカラ座出身Carlo Di Lanno.
結論からいうと、Sofiane Sylve様(さま、って付けちゃう貫禄!)はもちろんのこと、ダンサーのレベルはとても良いのにその他があまりにお粗末で踊りの良さが生きていないと感じた。
最たるものが照明。のっぺりとしていて明るすぎ、何を踊っても発表会のような安っぽさになってしまう。なぜ白鳥をあんな明るい照明でやるのだろう。日本も割と文化的な理由(家の中など全体的に生活の中での照明が明るい)からか、舞台が明るすぎて雰囲気がないと感じているけれども、それ以上だった。
Helgi Thomassonの振り付けだが、舞台が狭いから仕方ないのかもしれないが、やたらと振付が簡略化してあるのが気になった。跳躍にしてもなんでもそうだが、一度目、二度目、三度目があるから踊りに強弱がついて舞台が立体的に見えるところを、どれも、ここぞ、という盛り上がりのところで後退するパになったり細かいパが省略されがちなので、舞台に膨らみがなく止まって見える。ダンサーのレベルからしてもう少し複雑なパでもこなせるように思えたのでもったいないと思った。
芸術性よりも、いかにストーリーをわかりやすく伝えるか、という作りを重視しているところがアメリカらしい。芸術と言うよりはパフォーミングアーツだ(その違いは何か、ということは今日のところは突っ込まないでほしい)。例えば、ある女の子が悪魔の魔法で白鳥に変えられてしまったという有名なこのストーリーは、2幕オデットの美しいジェスチャーによってではなく、実際に女の子が出てくることで語られる。
何もかもが説明的に語られる。先日もJerome Belの時に書いたが確かにクラシックバレエは約束ごとが多く、それを共有しないことには理解できないことも多いとも言え、特権的な文化と言えないこともない。誰にでもわかりやすい演出、というのはそのようなクラシックバレエに対してアメリカ的なアプローチだと感じた。しかし、語りに見る側の想像の余地を残すことで生まれるものの豊かさについても考えるきっかけとなった。ミロのヴィーナスの腕はないからこそ人々の想像をかきたてる、というあれか。
Sofiane Sylveはとにかく見たこともないような白鳥を演じた。ロシア派にもああいうのはいないし、ヨーロッパスタイルでもない(ましてや、派手な技術を見せるアメリカンででもない)。流麗で雄弁な腕づかいは、唯一無二のものでセリフのようだった。白鳥であり人間であるというオデットそのもの。そして黒鳥オディールでは王子が食われるんじゃないかという貫禄。ああこの方が踊れるうちに見られたことが幸せ。
王子Carlo Di Lannoはスカラ座仕込みの端正な踊りで美しいダンスノーブルだが、演技力に欠け、突っ立ったまま、という印象なのが残念だった。4幕、オデットとロットバルトが縦に横にと物語の盛り上がりに合わせ素晴らしい大きな演技を見せているところ、彼だけが垂直立ち。フランス語で言うところのscolaire(「学校的な」。とても上手だけど何か心に訴えるプロの踊りではないという意味合い。)な踊り。
アメリカってこう言うものが好まれるのか・・・と、舞台に求められるものの違いを感じつつも、バランシンなどきっとこのカンパニーの強みが出る演目でまた見てみたいと思うようなダンサーのレベルではあった。
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# by chihiroparis | 2016-03-04 03:50 | ballet+danse | Comments(0)