Mats Ek's Juliet & Romeo@Sadler's Wells劇場

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わたくしが誰よりも愛する振付家、マッツ・エクの2013年の新作「Juliet & Romeo」、ジュリエットとロミオ、スウェーデン王立バレエ団。
この作品で木田真理子さんがブノワ賞を受章したことで話題になった作品。
1月にガルニエに来仏公演があるとのことで早々にチケットはおさえていたが、先にロンドンで見る機会に恵まれた。
ロイヤルのダンサーも多く見に来ていた様子。

曲はこの作品のバレエ化で馴染みの深いプロコフィエフではなく、チャイコフスキーの曲をいくつか使って構成されている。

エクは見るたびに進化しているところが好きだ。キリアンが老いた成熟のようなもの(それはモネの睡蓮の絵があのように抽象的になっていったのと似ている)へと向かっているのに比べ、彼はあくまで前衛にいると感じる。
今回も、エク言語はそのままに、さらに構成には様々な趣向が凝らされていた。登場人物が乗り物に乗ったり、壁際をマジックのように降りてきたり。

ただ、彼の他の作品に見られるような強烈な問題提議や彼独自の作品への鋭い読みと切り込み、というのはあまり感じられなかった。作品が今まで手がけたストーリーに比べたら凡庸だったか。

しかしエク言語は光り続けている。
今回強烈に感じたのは、彼の言語において脚はもはや腕であるということだった。

コンテンポラリーダンスの定義については様々な議論がある。
クラシックの何に対してコンテンポラリーか、ということを見ながらよく考える。
例えばフォーサイスはクラシックが重要視したバランスの美に対し、オフバランスをもってコンテンポラリー性を追求した、と思う。
古くは、ネオクラシックと呼ばれるバランシンは、ストーリー性のなさ、抽象性を以てネオ、だったのだろう。
バレエ・リュッスはポワントから降りることで妖精の世界から人間の世界を表すことに取り組んだ。

極論すれば、クラシックバレエでは脚はどんなに表現力を持っていても脚は上半身を支えるための脚である。
セリフがこぼれ落ちるかのような繊細かつ雄弁な足先使い、振り上げて大きく使うことで表される高揚感・・・・等、もちろん、脚は表現する手段としての発展は見せていたと思う。しかし、それらは、エク言語における脚と比較した場合には、あくまで上体を支える脚であった、と思う。
しかし、今回このエクの舞台を見ていて感じたのは、エクにおいては脚はもはや腕(手)であり、ポールドブラなのだということだった。
つまり、腕が4本ある物体が表現しているような感じがする。足先は、手と同じくらいの表現手段となっている。
これにともない頭の位置も自由だ。腕が4本になり、頭は古典で「つける」べき場所から解放され、自由自在にあちこちに「つく」。

カンパニーを構成するダンサーは多人種だった。
それによりエク言語の普遍性を強く意識することになった。
多人種・多様な特性を持つ身体により踊られることによりむしろ浮き出る普遍性。
身体的特徴が類似した同一人種により構成されるカンパニーでエクを見る時よりもこの普遍性は際立つから不思議だ。

木田真理子さんはいわゆる欧州人と並ぶ体型というものは持ち合わせていない。
非常に「日本人的」身体の持ち主だ。
それがジュリエットの少女性、あるいは無垢さを表現する手段になっていたようだ。
彼女が日本のカンパニーで同じ作品の主役を踊ったらこのようには見えないだろう。

カンパニーの来日公演を強くのぞみたい。
今までのエク作品ほどのインパクトはないが、新しいロミオとジュリエット作品として楽しんで見てもらえる作品だろう。










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by chihiroparis | 2014-10-12 14:28 | ballet+danse | Comments(0)

主にバレエ評


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