Jerome Belの問い:「Tombe」

ガルニエでは3演目が上演中。毎回物議をかもすJerome Belの上演を含め、この劇場がクラシック・コンテンポラリー両方で頂点にいようとする意欲を感じた。

ジェローム・ベルのTombe。
ベルのプロジェクトはこうだ。3人のこのプロジェクトに参加するダンサーがそれぞれ、舞台に上がったことのない人を探してきて共演するというもの。

幕が開くとジゼル2幕のセット。Gregory GaillardがHendaという黒人女性を連れて入ってくる。彼女は彼が毎日通っていたスーパーのレジをしていた人で、今はベビーシッターである。劇場を全く知らない彼女に彼がその仕組みや歴史を説明する。ジゼルの墓石は木でできていることが説明される。セットは場面転換のために上げることができ、上がると後ろのフォワイエで次の作品に出るダンサーたちが準備運動をしているのが見える。主役にのみ当てられるスポットライトについての説明の後で、スポットライトを当ててもらいながらHendaが自分のiPhoneの中に入ってた曲(中東系)でGregoryと踊る。Gregoryはスポットライトから出たり入ったりしながら踊る。
そこで二人は舞台下手によけ、次にSebastien Bertaudの演じるアルブレヒトが登場する。ジゼルが出てくる。車椅子に乗った、片足のないダンサーである。二人がアダージオを踊る。場面が転換し、次にBenjamin Pechが出てくる。
今回のプログラムで引退する彼が相手に選んだのは84歳のSylvianという女性。バレエを60年もの間見続けてきた人である。来ると必ず上手一列目の辺りにいたとか。24年の彼のキャリア中ずっと、見にくると必ず公演後にはアーティスト出口で彼を待ち、一言二言、感想と励ましの言葉をかけて帰っていたという。
創作が始まった2015年2月には元気だったのだが入院してしまい、今回は彼女が倒れる前最後のリハーサルを録画していたものを上映しそれを見ながらバンジャマンがコメントをしていくという形になった。
Veronique Doineauなどこれまでも物議をかもす作品をガルニエで上演してきたベルだが、彼の興味は観客と舞台・作り手・場の関係性に強くあるようだ。我々が慣れきった方法で、劇場に着き、虚構の世界に入る、という一連の行為を解体するかのように、ジゼルの舞台装置の裏側を見せる。
あるいは、彼の疑問は、表現的する身体とは何か、というものでもあるようだ。車椅子のダンサーのジゼルと、アルブレヒトのアダージオは、感動的だ。そのジゼルは"普通の"ジゼルより軽やかだ。とりわけアルブレヒトが彼女の手をとってぐるぐると舞台いっぱいに回る時など、速度もあって二人の想い合う気持ちがオリジナルとは違う形で迫る。もちろん、見るものにオリジナルのベース知識を要求しているものではある。例えば、"アラベスク"の場面。後ろ足はないけれども、伸びているように感じられる。最後に彼がジゼルの膝に抱かれて退場するところは感動的だ。オリジナルで彼女が墓に入りながら花を彼の頭に落とすことで見せる包容力と同様の意味がある。

コンテンポラリーというものはクラシックとは違う身体のあり方を模索し提示してきたのだと思うけれども、これも一つのコンテンポラリーなのだろう。歩くのもおぼつかなくなっている年齢のSylvainとBenjaminのアダージオしかり。近代的に訓練された身体の頂点でもあるオペラ座で、こういう表現身体を見せることの意味を考えた。

彼はまたこの虚構世界の作られ方・関係性について考えている人である。この作品は他の、コンテンポラリー用の、例えばTheatre de la villeなど大衆化した劇場では成り立たない。ここでやることで彼の質問が成立する。
しかし、会場は半端ではないブーイング。ひどい時は、終わるのもまたずにGregoryとHendaの後に「金返せ」と。またある時は、Gregoryが「最初はトビラを考えたけど彼女忙しくてダメだった」っていうと観客がどっと笑うところあるのだけれども、終演後に一人のクラシカルで綺麗な格好したムッシューが「トビラを馬鹿にすんな!仮にも大臣だぞ!」って叫びまくっていたりと。そしてこれに応酬する人あり。まるで映画「天井桟敷の人々」の劇場のようである!

ここで考えたこと。一生に一度、初めて大金を出してきたところでこの舞台を見されられたらどう思うだろう、と。舞台芸術を成立させるには、作り手と見る側に多くのコードの共有が必要だ。この作品の意図を理解し、ブーイングに対抗して拍手していること自体がとても特権的なことなのだ、という事実を突きつけられたような気がした。それが彼の我々に対する問いなのか。

なんとも言えない気持ちだった。誰が見ても、初めて見ても感動する舞台というものはある、と普段思っているけれども、そんなことないんじゃないか、とか、大衆化のために様々な策が出されているけれども、その時にでは上演される作品ってどういうものであるべきか、だとか、もやもやと様々考えながら幕間を過ごす。

それにしても激しくブーイングしたりとかそれに対して言い返したりとかということは日本の劇場では起こらないので面白い。こうやって無言であるいは声に出して問いを繰り返す場であり問いを提供する場でないとね、舞台はね、というベルのメッセージが聞こえてきたかのようだった。
とりわけ今回はトリプルビルの残りの一つがLes Variations Goldbergと、音楽的に普段「ミンクスなんか聴けますか」というスノッブな人たちなんかも来ていたと想像する。大金をはたいて滅多いにない機会として来た人もいれば、そう言ったスノッブ人たちもおり、これは推測だが、およそ後者が「オペラ座に」期待するものとは思えないものが上演された、ということなのだろう。

ちなみに障がいとパフォーミングアーツというシンポジウムが今度日本でも開催されるようだけれども、フランスでは病院内での(舞台を作ってではなく廊下など日常の場)上演などがあるようだし、精神疾患患者とのコラボなどがあるそうだ。今回のベルの作品により、障がい者とコラボレーションした舞台についてどこか善意・福祉・インクルージョンだとかいうワードの文脈が多いと勘違いしていたこういった分野が、そうではなくてオリジナルを超える可能性があるということを知った。義足によって膝下が長くなってモデルとして活躍した女性のことなんかを思い出させられたりもした。
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by chihiroparis | 2016-02-15 03:04 | ballet+danse | Comments(0)

主にバレエ評


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