San Francisco Ballet - Swan Lake
2016年 03月 04日
結論からいうと、Sofiane Sylve様(さま、って付けちゃう貫禄!)はもちろんのこと、ダンサーのレベルはとても良いのにその他があまりにお粗末で踊りの良さが生きていないと感じた。
最たるものが照明。のっぺりとしていて明るすぎ、何を踊っても発表会のような安っぽさになってしまう。なぜ白鳥をあんな明るい照明でやるのだろう。日本も割と文化的な理由(家の中など全体的に生活の中での照明が明るい)からか、舞台が明るすぎて雰囲気がないと感じているけれども、それ以上だった。
Helgi Thomassonの振り付けだが、舞台が狭いから仕方ないのかもしれないが、やたらと振付が簡略化してあるのが気になった。跳躍にしてもなんでもそうだが、一度目、二度目、三度目があるから踊りに強弱がついて舞台が立体的に見えるところを、どれも、ここぞ、という盛り上がりのところで後退するパになったり細かいパが省略されがちなので、舞台に膨らみがなく止まって見える。ダンサーのレベルからしてもう少し複雑なパでもこなせるように思えたのでもったいないと思った。
芸術性よりも、いかにストーリーをわかりやすく伝えるか、という作りを重視しているところがアメリカらしい。芸術と言うよりはパフォーミングアーツだ(その違いは何か、ということは今日のところは突っ込まないでほしい)。例えば、ある女の子が悪魔の魔法で白鳥に変えられてしまったという有名なこのストーリーは、2幕オデットの美しいジェスチャーによってではなく、実際に女の子が出てくることで語られる。
何もかもが説明的に語られる。先日もJerome Belの時に書いたが確かにクラシックバレエは約束ごとが多く、それを共有しないことには理解できないことも多いとも言え、特権的な文化と言えないこともない。誰にでもわかりやすい演出、というのはそのようなクラシックバレエに対してアメリカ的なアプローチだと感じた。しかし、語りに見る側の想像の余地を残すことで生まれるものの豊かさについても考えるきっかけとなった。ミロのヴィーナスの腕はないからこそ人々の想像をかきたてる、というあれか。
Sofiane Sylveはとにかく見たこともないような白鳥を演じた。ロシア派にもああいうのはいないし、ヨーロッパスタイルでもない(ましてや、派手な技術を見せるアメリカンででもない)。流麗で雄弁な腕づかいは、唯一無二のものでセリフのようだった。白鳥であり人間であるというオデットそのもの。そして黒鳥オディールでは王子が食われるんじゃないかという貫禄。ああこの方が踊れるうちに見られたことが幸せ。
王子Carlo Di Lannoはスカラ座仕込みの端正な踊りで美しいダンスノーブルだが、演技力に欠け、突っ立ったまま、という印象なのが残念だった。4幕、オデットとロットバルトが縦に横にと物語の盛り上がりに合わせ素晴らしい大きな演技を見せているところ、彼だけが垂直立ち。フランス語で言うところのscolaire(「学校的な」。とても上手だけど何か心に訴えるプロの踊りではないという意味合い。)な踊り。
アメリカってこう言うものが好まれるのか・・・と、舞台に求められるものの違いを感じつつも、バランシンなどきっとこのカンパニーの強みが出る演目でまた見てみたいと思うようなダンサーのレベルではあった。