↑1978年と古い作品だけれども初めてオペラ座のレパートリーに入ったSymphonie de psaumes
2016年末のオペラ座はガルニエでイリ・キリアンプログラム。名作Bella Figura、Tar and feathers、古い作品だけれども初めてオペラ座のレパートリーに入ったSymphonie de psaumesの三作品の上演を役替わりで二日間、キリアンを堪能。
二番プリエの多用というところで自分の中でキリアンはエクと比較して見がちなのだが、エクの二番は開放的で、意志は開いた腿よりもどちらかというと外を向いた膝の指し示すところにあり、一方、キリアンの二番では太腿外側(二番の時の上側)に力がないと発信されるものがないなと感じるのだが、その太腿の筋肉の踏み込みの力から発せられるものは非常に内省的な性質があるところがあり、二つは動作上は似ているようでいて全く違うところが面白い。
そんなことを思ったのは2000年代にオペラ座でキリアンを見ていた時には気づかなかったことで。その後リヨン・オペラ座を見て、またパリ・オペラ座での上演を見て、思ったことだったりする。
リヨンのダンサーよりパリ・オペラ座のダンサーの方がよほど形はきれいな体でコルセット姿もきれいなのだけど、クラシックを主のレパートリーとしているので体の重心が上に行きがちであり、そのため、太く力強い脚を持ったリヨンのダンサーが、床を捉えた時に動く太腿の筋肉から発信するメッセージ、これがオペラ座ではないように感じられた。(それでも一日目の若手に比べ、二日目に見たキャストでは、レティシア(ピュジョル)、ドロテ、アリス、とコンテを得意とするベテランエトワール揃いで、見ごたえがあったが。)
Bella Figuraを見ながら思ったのはキリアンの捉える人間は言ってしまえば全て「ただの」肉体でしかないということ。魂は神から与えられたもの。デュオの踊りを見ているとデュオ間での感情の交流というものはなくてすべては神聖なる神との交信、そんな気がする。
これが彼なりの人間の性への達観というか。感情的に距離感があり、全ては所与のものという冷めたものを感じる。Bir-th-dayのようなブラックなユーモアに溢れた作品をなぜ彼が作るのかなんとなくわかる。
身体がただの有機体として捉えられてる感じとでもいうのか。人間の感情表現にこだわる振付家とは全然違うし、そういう意味で彼はむしろアナトミー的でフォーサイスなどに近い感性を持っているのではないかと今回思った。
Symphonie du psaumesもこの流れにあって、大勢のダンサーが互いに身体的には交流するのに感情的には全く直接向き合っていなくて全員が神を向いて踊っている。神聖なる場には人間同士の感情は挟んではいけないらしい。あくまで身体が音楽を受け入れる客体であるようなところ、主体的な感じが舞台上にないのが特徴的。
ちなみに70年代のこの作品は言語的にまだとてもクラシックでオペラ座にはこちらの方が向いていた。(NDTのガルニエ公演で以前見たことがある。)
となるとTar and feathers(タールをかけ羽根を浴びせた刑罰)のような、「人間の二面性を描いた」という作品のように神を介さずに人の感情に切り込む手法は彼にはあまり長けていると思えず(そもそも最近の作品は無機質の極みか逆にこういう作品かのどちらかで私は好きではない)つまらなかった。舞台には3mくらいの脚をピアノにつけて高くしたところでピアニストが弾くというもので美術的には面白かったが、それ以上のものはなかった。
そうそう。Bella figuraを見ていると、胸をハサミでスーッと切り心臓を取り出して、冷たい大理石のテーブルの上で交換しあう、その心臓がドクドクと打つ音だけが耳に入るという、愛の場面なのだけど感情が排されていてそこには肉体的交信だけという神聖な場面をどうしても想像してしまう。愛する相手を感情が全て消え去るほどに心臓の音だけで感じることって、ある。
Tar and feathers
Bella Figura