カテゴリ:ballet+danse( 82 )

Boris Charmatz Les danseurs pour le 20eme siècle

f0008907_14492822.jpg
f0008907_14492009.jpg
f0008907_14491334.jpg
f0008907_14490637.jpg

Boris Charmatz Les danseurs pour le 20eme siècle

Charmatz はレンヌ・ブルターニュ国立振付センターのディレクター。オペラ座バレエ学校を経てリヨンのコンセルバトワールに学び、その後フランスコンテンポラリーダンスにおけるヌーベルバーグおよびNon-danseの潮流の旗手と呼ばれている。1973年生まれの若手で、オペラ座ディレクターのMillepiedとは友人だそうだ。(舞台に限らない)様々なシーンでのダンスを模索してきた
Charmatzの今回の企画は、ガルニエのあちこちを使って、観客にと交流ができるような近い場所で、20世紀の様々なダンスを振り返るというもの。ダンサーたち自ら作品について説明をし、小さなアンプで音を出し、自由な衣装(多くはスウェットや稽古着のようなものである)で踊る。
この企画が目指すものは、このような形式で踊ることで、「図書館でどうやって踊るの?」「ホール入り口では?」という問いを通し、言葉や動き、また、場所について省察を試みる、ということである。そしてこの上演方法を通し、いかにダンスの歴史が豊かで生き生きとしたものであったことかということを様々な場所で(再)発見しよう、と。脱コンテクストの試みということだろう。
実際に見てみた(というよりこれは「体験してみた」というほうが適切だ)ところ、これらは実現されていたという印象である。あるダンスがそのダンスが演じられるとされているはずである場所ではないところで、衣装も、距離感も違うところで演じられることで見る側には新鮮な驚きと発見があった。そしてそれは演じる側にも間違いなくあったという印象を受けた。いかに我々が固定された文脈とともに作品を見ているかということを再認識する作業でもあった。
とりわけ新鮮だったのが、廊下で踊られていたチャップリン、バリウッド、そしてまったく今まで見た形式とは違った瀕死の白鳥。
ダンサーにインタービューすることも可能だ。外のテラスで踊っていた若手ダンサーに、この企画をどう思うか?と聞いてみたところ、観客と交流ができるのは(普段と違って)非常に大きな喜びである、とのことであった。普段上演場所がかなり固定されているオペラ座にとってとても新鮮な企画だった。


[PR]
by chihiroparis | 2015-10-15 14:50 | ballet+danse | Comments(0)

バットシェバダンスカンパニー Batsheva dance company DECADANCE

f0008907_14350251.jpg

バットシェバダンスカンパニー(イスラエル)DECADANCE
NDT、CND、オペラ座・・・世界中のトップカンパニーに請われる振付家、オハッド・ナハリン率いる今世界でもっとも熱いカンパニーとも言えるバットシェバの来日公演@愛知芸術劇場。私にとっては昨年12月にChaillotで見たNaharin's Virus以来。

今回のDECADANCE(DECA=ギリシャ語で10+DANCEの造語)はナハリンの監督就任10周年を記念した作品で、彼の作品の抜粋をつなげた、いわばベスト・オブ的なもの。脱コンテクスト化され、ひたすらその言語を楽しめる作り。今まで見たコンテンポラリーダンスのどのダンスとも違う圧倒的な独自性。これがナハリンの確立したGAGAダンスというメソッドによる身体だ。

バットシェバの魅力は、とにかく舞台を埋め尽くす体積だと思う。細い体から絞り出されるような心理的に迫る表現というものもあるし、空間支配が圧倒的な踊り、というときに、それが手足の長さと伸びやかさを使ったものもあるだろう。しかしバットシェバの踊りは、その体積が迫ってくるような踊りだ。内臓を外に出し、心が叫び...感じたリズムとともに体内の全てが放出され、身体が、まるで本来の体積以上の体積を持っているように感じられる。

技術的にこのことは実際にどういうことなのだろうと考えた。私が欧州で見てきた多くのコンテンポラリーにおいて、骨盤と背骨の関係が、程度の差はあれクラシックバレエの基礎である垂直関係から大きく崩れてはいない。エクにしろ、キリアンにしろ、オフバランスでバランスというクラシックに対しコンテンポラリーであろうとしたフォーサイスにしろ。このことは、自由な動きだと思われるものであっても、力学的に上半身と下半身の関係がある程度予測がつくということを意味するのではないか、と今回思った。というのも、ナハリンにおける身体は完全にこの”近代的”力学からは自由で、次の動きは予測不可能だ。要は、思いもよらない形をとるということである。これを、相当な速度で行う。そのことにより、ある程度軌跡が反復的あるいは予測可能範囲内でおさまる上記コンテンポラリーに比べ、不規則で予測不可能な軌跡が描かれ、これが速度により残像として残っているうちに次の思いもよらない軌跡がやってくる。このことで、見ているものは実際の体積以上の身体の体積を感じる・・・そのような印象を受けた。

面白いのは、1(uno),2(duo), 3(tera)...とカウントを増やしながらの踊り。クラシックでいえばエチュードのようなこの作品、1カウントに1動作が入り、カウントを一つずつ増やす動きが繰り返されることで、今度はこれらの残像が先取りされているような感覚に陥る。つまり、1,2,3,4...とくれば見ているものがすでに次の1に行っていて、脳内でぐるぐると動作がすでに軌跡になっているのだ。予測不可能と書いたけれども今度はそれを種明かししていくような仕掛けの魅力に酔った。

とにかくあと何回もみたい作品!とにかく動きを楽しめよ!とナハリンからのメッセージが飛んでくるかのような75分!


[PR]
by chihiroparis | 2015-10-15 14:35 | ballet+danse | Comments(0)

ないからこそ想像の中で生まれる美

f0008907_10594068.jpg

ルーブルのサモトラケのニケに、ずっと保管されていた右腕がお目見えするそうです。
そんな記事を読んでいたら、現代文の問題で有名なあれ、
"ミロのヴィーナスには両腕がないからこそ全体の美について人々の想像力をかきたてる"
っていう話を思い出したのでした。

調べてみたら清岡卓行氏の第二評論集『手の変幻』というのが出展なんですね。読んでみたくなりました。
受験勉強で部分的に触れたものがこうして大人になって思い出されるというのは面白い。

ところでオペラ座ではバスティーユにて白鳥の湖が上演中ですが、白鳥という作品は本当に極めるのが難しい作品だと思います。
バタバタという羽の動きにより"白鳥に見せようとしている"うちは目にうるさく感じます

ないからこそなにかそこにあるものを想像させる。
表そうとするものの形状を真似することがそれを表すことにはならない。
引き算の美にはミロのヴィーナスの両腕の話と通じるものを感じます。

先日バスティーユ地下で行われた公開リハーサルを見る機会がありました。(オデット/オディールにSae Eun Park、王子にYanick Bittencourt、ロットバルトにJeremie Le Quer)
場面は3幕黒鳥から開始。
新監督のBenjamin MIllepiedは「ブラック・スワン」の振り付けをして一躍時の人となったわけですが、ここは十八番とばかりに張り切る張り切る。指導の内容は具体的で、特に王子に女性のサポートの仕方を的確に伝え、どうしたら彼女が踊りやすく、美しく見えるかについて自ら手本を見せ指導。音楽性にも非常に細かく、かつ演技指導も、これも自ら手本を見せ、意味を説明し、しっかりと。もう少し指導役のElisabeth Maurinの貴重な指導を聞きたかったようにも思いますが、新監督のあり方が提示されたようで面白くはありました。

そのMaurinの指導でハッとしたのが2幕、白鳥オデットと王子が出会う有名なマイムのシーン。音楽も美しく、何度見ても泣いてしまう叙情的な場面です。
ここでオデットが、この湖は涙でできているのです・・・のそうあれです。涙がこぼれ落ちるような仕草と、湖をあらわすポールドブラ。このポールドブラのお手本の驚くべき洗練性。ヌレエフ世代のエトワールの凄さを目の当たりにしたという思いがしました。
先立って3幕の指導では、オペラ座らしい指導点だと思ったのが、デモンストレイティヴになりすぎないこと、という指摘。黒鳥はダンサーによってはガラ公演のようで派手にしがちです。あくまでストーリーを追うことを追求した指導はMillepiedと矛盾しないところで、この二人による、視線の置き方、そして、たとえばピケ・アラベスクにしても、ただ技術的にそれを行うのではなく意味があることの説明(ロットバルトのほうを指すように!)、など、一々納得してしまい、また、このように全ての仕草に丁寧に意味を込めていくからこそ、形式的にならずストーリーを語ることのできる舞台に仕上がるのだ、と感激した次第でした。
ちなみに、記録しておくべきこととして、ヌレエフの意図を伝承するMaurinの重要な発言がありました。ヌレエフによれば、王子はこの2幕での出会いの場面、オデットを見ているようでいて同時に鏡を見ているようにしなさい、と。オデットは自らを投影するものでもあったのだと。王子の憂いに焦点をあてたヌレエフ版をより深く理解するためには重要な伝承でした。

もともと技術的にはまったく問題のない、いわば鳴り物入りで入団したSae Eun Park、二人の指導で目の前でみるみると芸術性を増していく様子に、今後ますます期待の高まるダンサーだと感じました。ハードな白鳥の舞台に、開幕後はけが人も出ているのか配役チェンジがありYannickもアンダーながら実際に踊る日が配役された様子。他にもHanna O'nilや実力派SujetのHeloise Bourdonなど、Millepiedの采配でいっきに若手の登用が進む今回の白鳥、目が離せないですね。











[PR]
by chihiroparis | 2015-03-18 11:16 | ballet+danse | Comments(0)

Notre dame de Paris, Les adieux de Nicolas LeRiche

2014年7月のこの二件を書いていないわ、と思ってエントリーしておく。あとで編集しましょう(自分メモ)。
[PR]
by chihiroparis | 2015-03-01 22:53 | ballet+danse | Comments(0)

Lander/Forsytheプログラム (2014.09)

f0008907_00085110.jpg
備忘録。
2014年9月ガルニエ。Lander/Forsythe プログラム。

LanderのEtudes。アルビッソン・アリュ・ラヴォーという若手トップクラス組で見る。
ニコラ・ル=リッシュのエネルギーにパトリック・デュポンの破天荒さを足すもののオペラ座育ちのエレガンスを持ったアリュ。
繊細な持ち味で育ちの良さそうな、品のあるラヴォー。
これからのオペラ座を引っ張るまったく違う持ち味の二人による黄金時代の到来を感じる。
しかしこの後ラヴォーくんは名前を変えてなんですか、 Artur Allardにしたんですよね。
なにか思うところでもあったんでしょうか。
f0008907_00215205.jpg
Woundwork 1
マリ=アニエス・ジロー、エルヴェ・モロー
アリス・ルナヴァン、フロリアン・マニュネ。
前回アニエス/マチューで見た時より良かったように思うが、しかしそれでもあまり印象の強い作品ではない。
f0008907_00300415.jpg
Pas./Parts
フォーサイスの何がコンテンポラリーか。ということについてよく技巧的な面でわたしもあれこれ書いたりするが、今回思ったのはなんだかんだいってファッション。と笑。オードリックが踊るフォーサイスのなんとファッショナブルなこと!なんだか一連の動きがファッション雑誌の頁をめくっているような感覚に陥る。以前この作品を見たときに一人その腕の動きで際立っていたベランガールをもってしても感じなかったこと。フォーサイスを見てこういう感覚に落ちたのは初めて。




[PR]
by chihiroparis | 2015-02-09 00:32 | ballet+danse | Comments(0)

キリアンの普遍性 キリアンプロ@TCE ノルウェー国立バレエ団

f0008907_14562632.png
ノルウェー国立バレエ@Theatre des Champs Elyseesでキリアンプログラム。
Bella Figura, Gods and Dogs, Symphonie des Psaumesの3作品。
オペラ座でここのところ上演がなく、大好きな作品なので久々に見て感動したBella Figura。
パリ時代の友人が真ん中を踊り、感無量だったGods and Dogs。
そして、重層的で、交響曲を視覚化したかのような圧巻のSymphonie des Psaumes。

生でないとキリアンの良さは絶対伝わらない。奥深く感じられる舞台演出の中でこそ引き立つ身体性。その奥深さには音楽も一役買っている。キリアンの普遍性を感じた。カンパニー、身体、これらが変わるごとに違った味わいが出るから見応えがある。我々の身体の美しさ、深淵さ、神聖さに気づかされる。

******
数日後エクを見る機会があったのだが、エク言語では人がどこまでも解放的で外に向かって行くことで内心を視覚化しているような感じがするのに対し、キリアンは内省的で何か胎内の深遠・神聖なものに到達しようとしているように見える。動きは解放的なのだが内なるものへと向かっているような感覚。
******
f0008907_14572289.jpg


[PR]
by chihiroparis | 2014-10-12 18:51 | ballet+danse | Comments(0)

Mats Ek's Juliet & Romeo@Sadler's Wells劇場

f0008907_13480133.jpg
わたくしが誰よりも愛する振付家、マッツ・エクの2013年の新作「Juliet & Romeo」、ジュリエットとロミオ、スウェーデン王立バレエ団。
この作品で木田真理子さんがブノワ賞を受章したことで話題になった作品。
1月にガルニエに来仏公演があるとのことで早々にチケットはおさえていたが、先にロンドンで見る機会に恵まれた。
ロイヤルのダンサーも多く見に来ていた様子。

曲はこの作品のバレエ化で馴染みの深いプロコフィエフではなく、チャイコフスキーの曲をいくつか使って構成されている。

エクは見るたびに進化しているところが好きだ。キリアンが老いた成熟のようなもの(それはモネの睡蓮の絵があのように抽象的になっていったのと似ている)へと向かっているのに比べ、彼はあくまで前衛にいると感じる。
今回も、エク言語はそのままに、さらに構成には様々な趣向が凝らされていた。登場人物が乗り物に乗ったり、壁際をマジックのように降りてきたり。

ただ、彼の他の作品に見られるような強烈な問題提議や彼独自の作品への鋭い読みと切り込み、というのはあまり感じられなかった。作品が今まで手がけたストーリーに比べたら凡庸だったか。

しかしエク言語は光り続けている。
今回強烈に感じたのは、彼の言語において脚はもはや腕であるということだった。

コンテンポラリーダンスの定義については様々な議論がある。
クラシックの何に対してコンテンポラリーか、ということを見ながらよく考える。
例えばフォーサイスはクラシックが重要視したバランスの美に対し、オフバランスをもってコンテンポラリー性を追求した、と思う。
古くは、ネオクラシックと呼ばれるバランシンは、ストーリー性のなさ、抽象性を以てネオ、だったのだろう。
バレエ・リュッスはポワントから降りることで妖精の世界から人間の世界を表すことに取り組んだ。

極論すれば、クラシックバレエでは脚はどんなに表現力を持っていても脚は上半身を支えるための脚である。
セリフがこぼれ落ちるかのような繊細かつ雄弁な足先使い、振り上げて大きく使うことで表される高揚感・・・・等、もちろん、脚は表現する手段としての発展は見せていたと思う。しかし、それらは、エク言語における脚と比較した場合には、あくまで上体を支える脚であった、と思う。
しかし、今回このエクの舞台を見ていて感じたのは、エクにおいては脚はもはや腕(手)であり、ポールドブラなのだということだった。
つまり、腕が4本ある物体が表現しているような感じがする。足先は、手と同じくらいの表現手段となっている。
これにともない頭の位置も自由だ。腕が4本になり、頭は古典で「つける」べき場所から解放され、自由自在にあちこちに「つく」。

カンパニーを構成するダンサーは多人種だった。
それによりエク言語の普遍性を強く意識することになった。
多人種・多様な特性を持つ身体により踊られることによりむしろ浮き出る普遍性。
身体的特徴が類似した同一人種により構成されるカンパニーでエクを見る時よりもこの普遍性は際立つから不思議だ。

木田真理子さんはいわゆる欧州人と並ぶ体型というものは持ち合わせていない。
非常に「日本人的」身体の持ち主だ。
それがジュリエットの少女性、あるいは無垢さを表現する手段になっていたようだ。
彼女が日本のカンパニーで同じ作品の主役を踊ったらこのようには見えないだろう。

カンパニーの来日公演を強くのぞみたい。
今までのエク作品ほどのインパクトはないが、新しいロミオとジュリエット作品として楽しんで見てもらえる作品だろう。










[PR]
by chihiroparis | 2014-10-12 14:28 | ballet+danse | Comments(0)

マノン@ROH

f0008907_14115567.jpg
ロイヤル・バレエでマノン@ロイヤルオペラハウス。
初日、マノンにマリアネラ・ヌレェス、デ・グリューにフェデリコ・ボネッリ。

オリジナルのカンパニーで見る良さを存分に堪能する。

見始めは正直、普段この作品を見慣れているパリ・オペラ座との違い(とりわけ踊りのスタイル)に戸惑っていた。
なんだかポールドブラがせわしない気がしたし、ダンサーたちの身体がやたら筋肉質なのが気になって仕方なく。

ほどなくしてストーリーにぐいぐいと引き込まれる。
主役からコールドの端の端まで、舞台に何かしらの一貫性があると言ったらよいのだろうか。
さすがはこの作品のオリジナルカンパニー、そこで伝承される細やかな演技指導というものがきっとあるに違いない、と感じた。

主役二人。ラテンの血が生きていた。こんなにマノンへの愛情が全身から溢れ出るデグリューはそうそういない。なんて愛情深いデグリュー。
もう見ていてマノンになった気持ちでフェデリコの一心な愛情を受け止めてた私(笑)。
フェデリコの特に良かったのが2幕、なんでだよ、愛し合ったじゃないか、とあのピルエットから膝まづきに入る振付での強い愛の訴え。一幕でのエレガントな愛の告白とは違う表現。そして3幕のあり得ない包容力.....!

マリアネラは前半、少し上品さに欠けるかな?エレガントではないわ、その笑い方庶民のお嬢さんみたいよ、と思ったけれど、よくよく考えてたら普段見ているオペラ座のマノンがきっとマノンにしては上品すぎるのだ。
ファムファタル、こんなもんでいいんじゃない。
というのもそのほうがいつもあまりしっくりこない2幕に説得力があったのだった。
マクミランはマノンを純粋な女性だと読んだとのこと。
純粋さ・無垢さゆえに男の人生を狂わせたファムファタルということか。

脇が名役者ぞろいなのもロイヤルならでは。中でも看守を演じたGary Avisの演技はいつもそうだが他に類を見ないもの。欲望にまみれた男をなんと強烈にしかも下衆いのに上手にセクシーに演じたことか。こういうキャラクターダンサーがいるのがロイヤルの強みだ。

なんの作品でもオリジナルのカンパニーで見てみるのは本当にいいものだ。ああこうだったの、と作品の広がりと深みが感じられる。
結局そんなわけで見終わってみればさすが役者揃いのロイヤル、ストーリーにどっぷり浸からせてもらった。こういう時は結局踊りの細かいことはあまり気にならないし、言うのも野暮な気がする。「演劇」を堪能した。

*****
同じ配役で10/16(木)現地映画館、そして翌10/17(金)には日本で映画館中継があります。
新宿バルト、大阪梅田ブルグ、他。見逃せません!



[PR]
by chihiroparis | 2014-10-12 13:40 | ballet+danse | Comments(0)

World Ballet Day

本日10月1日、World Ballet Day、だそうです。
こちらで世界の5バレエ団の稽古・リハーサル風景が中継されます。
トップバッターは日本時間11時〜オーストラリアバレエのクラスレッスン。
その後、ボリショイ、ロイヤル(マノンのリハーサルだそうです!)、ナショナル・カナダ、サンフランシスコ、と魅力的なバレエ団ばかりが続きます!
放映時刻はこちらの記事中にありました。

各カンパニーの特色が出るクラスレッスンを見るのは本当に楽しみです!




[PR]
by chihiroparis | 2014-10-01 11:42 | ballet+danse | Comments(0)

Noism「カルメン」- Carmen by Noism

f0008907_2591634.jpg
金森穣率いるNoismによる「Carmen」。

ストーリーにというよりはダンサーの身体性に圧倒され、最後の方わけもわからず涙が溢れる。
終演後はしばらく呆然として椅子から立ち上がれないほどだった。是非欧州で紹介されるべき、と強く思う作品。

***
Noismを観たのは旗揚げ後のパリ日本文化会館での公演を観て以来だったので、かなり久々。
あの時は金森穣というダンサーの才能が他のダンサーより突出しすぎていて、その振付の才能に、新しい時代が日本の舞踊界に来るんだ、という期待に胸高まりつつも同時に、彼の思う舞踊をいったい誰が具現して行くんだろう、とも思ったのだった。

久しぶりに観て、そして彼自身が出演していない舞台を観て、これがルードラでベジャールと、NDTでキリアンと、リヨンでエクをはじめとした先進的振付家たちと・・・欧州の第一線の舞踊界に触れて来た金森穣がその後その経験をもとに日本人の身体性と本気で向き合った結果なんだと思うと、感動で泣けてきた。
確かにエクの影響は言語的にも構成的にもすごく大きいと思ったし、フォーサイスが使ってる手法など欧州コンテンポラリーの現在の影響があちらこちらに散見されたけれども、それは真似事ではなくて、彼の中で完全に消化されて彼自身の言語や舞台構成として生きていると感じた

日本人の身体性と真摯に向き合って、と最初に書いたのはそこで、影響を自分のものにし真似事になっていないのはダンサーたちの身体と日々向き合って作ったものだからだろうと思う。劇場付き、カンパニーつきの振付家だからこういうことができたのかなと。

ダンサーでは主役カルメンを演じた井関佐和子が突出している。アジア人女性が恋愛ものを演じると多くの場合おそらくはその身体や表情の特徴から意図せずして女の哀しみのようなものが出てしまい、男性を圧倒するような女性を演じることはとりわけ難しいと常々感じているが、圧倒的なファム・ファタルを演じていて驚いた。

***
オペラや既存のバレエ作品が原作の一部であるホセとカルメンの恋愛に焦点をあてて脚色されているのと違い、この作品は原作の世界観を描いている。すなわち、当時の南スペインの下層社会で生きる人々、そしてそれに関わる「よそ者」たち。オペラやバレエで馴染んでいるカルメンよりも、もっと土臭く、荒々しく、そして誰もが痛々しいほどに必死に生きている。
日本人の身体性と向き合った、と書いたけどこれはでも同時に不思議なほど普遍性を持っている作品。

***
一つだけ私が受け入れられなかったのは、その、「よそ者」の目、を描くために取り入れた演劇の手法、つまり役者のナレーションを入れたことだった。そのセリフ回しが私の中にある演劇体験と重なってしまい、記号としてそれらの記憶が呼び覚まされて、凡庸なイメージを抱いてしまった。役者が声を張りあげれば張り上げるほど興ざめしてしまう、そのことは金森氏の舞踊言語に魅惑され同時に普遍性を感じるのとはまったく違うベクトルだった(私の中での受け止め方が)。アフタートークで金森氏は演劇界から影響を受けたと実際口にしていたし、無声映画の浪曲師のようなセリフ回しは日本的な様式美でもあり使いたかったのだろうが、声はダンサーが時折発する奇声だけでよかったのではないかと感じた。話をわかりやすくと思ったのかもだし、内と外、という構造において、ストーリーの外にいる者の目、を表現したかったのだろうけど、そこは見る側の想像に委ねてはだめだったのか。もっと「行間」があったほうが面白かったのではないか、と私は感じる。
あるいは、既存の演劇との記号性を取り払うべく、声を演劇的に張り上げず、マイクを使ってでも「語り」の形にするのではダメだったのだろうか、などいろいろと想像して考えた。それもこれも、彼の舞踊言語があまりに魅力的だったためにそのものだけを邪魔されずにもっと堪能したいと思ったからである。

***
とにかくあと五回くらい連続で観たいと久々に思うような作品。
それから、これはぜひ他のカンパニーでも観たい。観ながらすぐにパリ・オペラ座や、彼の出身のリヨンオペラ座だったらどう踊るだろう!と想像してワクワクしたし、新国立劇場バレエもこういうものを演じることで広がる幅があるのでは。
そうやってカンパニーって伸びて行くのだと思う。
そこではまたきっと、金森氏がNoismで向き合ったものとは違う身体性と向き合うことになるが、きっとそれがNoismによるこの作品の上演にも何かをもたらすのでは。ピナ・バウシュ、キリアン、エク、ベジャール・・・偉大な振付家たちの作品と彼らのディレクションするカンパニーがそうやって発展してきたように。


[PR]
by chihiroparis | 2014-06-28 02:53 | ballet+danse | Comments(0)