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ロイヤル映画館中継@パリ Romeo et Julietteロミオとジュリエット, Sarah Lamb/Steven McRae

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Romeo et Juliette, en direct de Royal Ballet de Londres
Avec Sarah Lamb et Steven McRae

今年で初演から50周年記念となるケネス・マクミラン版の「ロミオとジュリエット」を本家ロイヤルバレエから中継。ロミオにスティーブン・マックレー、ジュリエットにサラ・ラム。初演では20分もスタンディング・オベーションが止まなかったと言うのもうなずける、演劇バレエの最高峰作品。

今まで見たロミジュリの中でもっとも透明感に溢れた主役二人に、悲恋に突入する前、恋の高揚感を描いた1幕で既に感動で涙が溢れた。マクミランがもっとも得意とする、人の愛や恋といった感情の視覚化。恋愛をするときに感じるなんとも言葉にできない胸の高鳴りや相手への強い想いが言葉もなく形になって眼前に現れる衝撃。マクミランの醍醐味はここにあると思う。

主役の二人のなんと瑞々しいこと!サラ演じるジュリエットの透明感のある処女性。マックレーのロミオは、少年から大人への移行時期にある独特の繊細さ、大人びていく過程で出る妙な色気がある。特に2幕、マキューシオが殺され、ロミオはティボルトに向け剣を取らなければならないが、ここでロミオは初めて死を自ら請け負わなくてはならない。この訪れた通過儀礼的な場面で大人になることを表す色気めいたものがロミオ役に必要だったということにマックレーのロミオは気づかせてくれた。

何度見ても新鮮に見られるマクミラン版だけれども、今日はこの二人のおかげで、1幕の二人の恋までの過程がこんなにもマクミランによって丁寧に描かれていたのかと気付かされた。触れるか、触れないかという、二人の間にあるのは花びら一枚かなというような出会いから、若気の至りとも言えるラストの悲劇に突入することがまったくもって自然に思えてしまうほどの抑えようのない恋の高揚を描くバルコニーのシーンまでの流れ。このような人生で起こる恋の出会いがいかに奇跡的なことなのか、と感じさせ、既にそこでラストの悲劇への方向性が説得力があるのだった。そのような一幕を見せたカップルはなかなか今まで見た中でもいなかっただけに衝撃的だった。

この1幕を見ながら、ダンサーのキャリアの中で、その人がもっとも良い時期に、身体性や芸術性の合うパートナーに恵まれるかどうかっていうのは本当に運なんだな、ということを考えた。あまりにその意味でベストパートナーであるこの二人が今、こうして最高の状態で、組めるということ、そしてしかもそれがこうして映像に残るという、普段生の舞台をたくさん見ている観客としてはもはや奇跡とも思えることに、心から感謝した。

支えるロイヤルの役者陣。シェイクスピアのお国が上演するバレエとはこういうものか、といつもロイヤルの演劇バレエでは重厚さに圧倒される。
死ぬ時に食べたいもの、ならぬ見ていたいもの、はこの作品のバルコニーの場面かな。今日バルコニーの場面を見ながら、好きなバレエがあれば何もいらないな、と本気で思ったりした。そのくらい圧倒的な作品だし、今晩の上演は自分の観劇史に残る上演だった。3幕はちょっとあっさり気味だったけれども。

ヌレエフ版との比較の中で出てくるロミオやジュリエット像の違いなどについては以前ABT(ホールバーグ&オシポワ)で見た時にまとめてあります。http://danseparis.exblog.jp/16368361/

日本でも11月7日、映画館で上映あり。絶対に見逃せないプロダクション!


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by chihiroparis | 2015-10-20 16:33 | ballet+danse | Comments(0)

Sylvie Guillemシルヴィ・ギエム引退公演 Life in profress @TCE

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100年に一度のダンサーなどと評されることも多いシルヴィ・ギエムの引退公演「Life in progress」最終日。そのタイトルの通り、常に開拓者であり革命者でありあるいは反抗者?でもあり、前に進み続けたギエムらしい、まったく懐古的な面のないという潔いプログラムだった。50歳の彼女の「今」を見せるという斬新なもの。プログラムは、Techné(アクラム・カーン)、Here&After(ラッセル・マリファント)、Bye(マッツ・エク)の3作を本人が踊り、間にDuo2015(フォーサイス)をフォーサイスカンパニーのダンサーが踊った。
クラシックバレエをまだ踊っていた頃から現在に至るまでの彼女の数々の舞台を思い出しながら、この人はその出来すぎた身体(もちろん本人の努力にもよるものだが)で表現できるものがもっとあるのではないか、と常に挑戦し続けた人だったなと考えた。
その脚は上げてるんじゃなくて上がってしまう。彼女を見ていると、上がったものではなく上げようとするその力学に美ってあるんだなと気づいたし、何をやってもあまり表現者として魅力的だと思ったことはなかった。ただただ、その並外れた身体と驚くべきレベルに磨かれた技術のほうに感動を覚えたものだった。ロイヤルで演劇バレエを踊るも、女優としてはあまり魅力的だと思えなかった。だからクラシックを離れてコンテンポラリーを中心に踊るようになってからのほうが、彼女は自分の身体から生まれる表現の可能性にもっと挑戦しているようで、魅力的だった。
カーンの作品では地を這い魂を外に吐き出すように内なるものを発信しようとしていた。無機質な、というのが彼女への褒め言葉でもあり同時に批判的評価でもあったと思うが、決してそんなことはないと内臓までさらけだしたように踊った。
同じ激しさでも一転、マリファントの作品では、いわゆる彼女の体操的に秀でたもの、極限の身体性で魅せる。この人がこれでもう引退をするとは考えられないような、今でもその辺の若手ダンサーには到底真似できないような身体・筋肉の動き。ひたすらギエムの身体を創造物として楽しむのはこの作品だろう。
マッツ・エクの作品は、2年前のギエム公演の再演。これを見ながら考えたことは、パートナーに恵まれなかったダンサーだなということ。孤高ゆえに孤独のダンサーだった。それはもちろんその身体が他の誰もが組めないほどに突出して秀でていたから。踊りはバランス。ルテスチュのようにダンサー生涯この人ひとり、というような貴重なパートナーシップを築ける相手に出会い、歴史に残るInterpretationを残す人たちもいれば、いろんな人と組んで様々な魅力を出してキャリアを終える人もいる。いろんなタイプがいていいと思うが、なんていうか、この人に本当に匹敵する男性ダンサーがいたら、どうだっただろう、と思うのだった。そして、国家的損失とも言われたけれども、あのままロイヤルに移籍せずにオペラ座にいたらどうだったのかな、と。女優的に開花する彼女を見たかった気もする(ロイヤルでアシュトンを踊ったりももちろんしていたわけだが)。
エクの作品は、出演は彼女だけなのだが、映像で幾人もの人が出てくる。最後はその人たちの中に彼女が一緒に混ざって、消えていく。彼女の孤高すぎたキャリアを振り返りながら最後にそういう締めで終わったこの作品のラストが、心にしみた。振付家に与えられたものを通し表現するもの、振付家と自らコラボしに出かけ何かを表現しようとするもの、古典作品の中で自分だけの表現をしようとするもの、いろいろいると思うしキャリアはその一つだけでなされるものではないが、彼女は、こういう言い方は勝手かもしれないが、おそらく自分の身体を明らかに"持て余していた"と思うし、そのため振付家のところに積極的に出向いていきその身体が挑戦できる表現を自ら開拓していた。表現への挑戦とアンガージュモンとをし続けたダンサーだったと思う。その意味で、主張は受け入れられないけれども、シーシェパードの件も、最後の舞台においてもそんなブースが会場に出ていたのも、なんだか彼女らしいと思った。
スタンディングオベーションが続き長い長いレヴェランス。彼女を体操のオリンピック選手養成コースからオペラ座バレエ学校に引き抜いてきたベッシー女史が花束を持って現れる。最後に、サプライズ。係りの人に導かれ舞台袖の椅子に座るように言われ彼女が座ると、出て来たのはギヨーム・ガリエンヌとニコラ・ルリッシュ。カリギュラでドラマトゥルグとしてニコラとコラボしたガリエンヌによる朗読。ニコラが、彼女と最初に踊ったというドンキホーテのバジルの最初のヴァリエーションを朗読にのせて踊る。そして最後に「僕たちはシルヴィのおかげで出会ったんだ」と締められる。ギエム、ここで感極まって泣いていた。感動的な瞬間だった。
かつてのパートナーとしてはイレールもきていた。思い出すなぁ、ロイヤルに移籍した後、ゲストでマノンを踊りにオペラ座に来たときに組んだ相手はイレールだった。1幕で馬車から降りてくるマノンの出の場面でのギエムの光り輝いていたこと。フォーサイスのIn the middleで物議を醸したのもイレールとでしたね。なかなかこの二人も切れ味が合ってていい組み合わせだった。やっぱりオペラ座に残ってもっといろいろ踊ってほしかったかなという気もオペラ座ファンとしてはしたけれども。本当にしかし、常に引退まで前衛でいたという粋なダンサーだった。
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by chihiroparis | 2015-10-20 16:21 | ballet+danse | Comments(0)

Claire ChazalさんTF1ニュースから降板

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(画像はこのことを伝えるニュースからお借りしました)
20時のニュースといえばFrance2かTF1ですが、TF1の週末の20時の顔、クレール・シャザルさんが突然降板。
なんと24年間勤めてきたといいます。降板は本当に突然でした。理由はいろいろ取りざたされています。
バレエファンとしても知られ、オペラ座で、そして街のバレエスタジオで、よく見かけますがとても素敵な方でした。
最後の放送での周囲や視聴者に対する感謝のメッセージの感動的だったこと。
次はどこでお会いできるのでしょうか。お疲れさまでした。



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by chihiroparis | 2015-10-15 15:05 | atualites | Comments(0)

Jiri Kylian Trois chefs-d'oeuvre @L'Opera de Lyon

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L'Opera de Lyon でJiri Kylian Trois chefs-d'oeuvre. 彼の代表作3作品を上演。さすが、と唸る良い構成だった。

名作Bella Figura. 最近パリで上演がなくて寂しいが2000年代初頭にはオペラ座がよく上演をしていた作品。この作品を見ると、身体の神秘を胎内で感じているような気分になる。その胎内は大きなゴシック教会に入った時の祭壇のほうに向かって吸い込まれるような感じでもあり、宇宙の広がりのようでもあり。そこで、人と人が「心」でコミュニケーションするのではなくて、もっと原始的に、そう、生物的にやり取りをしているように思えてくる。それは体を開いて、そこから取り出した心臓と心臓がドク、ドク、とデュオでコミュニケーションしているような。グロテスク?いや全然違うのです。深淵で。生が聖なるものであると感じられてくる。
Opera de Lyonはこの作品には少し体に余分なものがつきすぎていると感じた。特に脚がこの作品の持つ神秘性を表現できないほどにもりもりとした筋肉で。中盤あの有名な裸体にただ赤いスカートを履いただけの場面では脚が隠れ美しかったこと。生と性と。エロス。

2作品目はHeart's Labyrinth. 1984年の作品だが初見だった。NDTのカンパニーの一人のダンサーが自殺するという衝撃的な事件をなんとか消化しようとした苦しみに溢れた作品。非常にナラティブな作品だった。見ているこちらにも迫り来る苦しみにかなり胸が痛くなったが、作品を作りながらだんだんとキリアンとカンパニーが苦しみから解放され、最期には希望の光をなんとかつかんだのだな、ということが感じられた。観ているこちらも救われる。終盤、白い衣装の場面は教会で天国へと送り出すセレモニーを観ているかのような。非常にキリスト教的な死の理解のように私には感じられた。苦しみからの解放。

3作品目、27'52''はギエムの公演でNDTのダンサーによって踊られたのを見た(@TCE)が正直そのときはあまり印象の良い作品ではなかった。
キリアンの後期作品というのは電子音楽を使った作品が増えるのだが、以前、ChaillotでNDT公演を見たときに、なんでこの時代のネオクラシックの振付家は結局こういう無機質なところに行き着くのかなぁと思いながら見た記憶があるのだけど(結局我々の愛するいわゆるキリアン的要素は弟子が受け継いでいて、さらに濃縮されていたのだった、キリアンの作品が老成と共に無機質になっていったのとはそれは反対のベクトルだった)、今日ふと思ったのだが結局なんだかやってることは「ダンサーは音符」と言ったバランシンの時代とそんなに変わらないのではと。音楽が電子音楽になって表現されるものも変わった、と。ただキリアンのはダンサーは音符、というよりは、音を受けた反応、というように感じられた。この作品でのOpera de Lyonのダンサーたちのすごかったこと。本領発揮といったところ。素早い動き、筋肉の躍動で電子音が肉になっていく。あれ、無機質と思ったけど終わってみたら肉感溢れる作品だったじゃないですか。Opera de Lyonの本質をここで見た気がした。NDTよりも肉感的で躍動的な身体。
Bella Figuraからこうして通して観て、「間」での身体表現はとても難しいものだしそのための身体はかなりクラシックな訓練を受けてないといけないのかなぁなどと考えた(ここのとこまだよく言語化できないけれども)。


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by chihiroparis | 2015-10-15 14:54 | ballet+danse | Comments(0)

Boris Charmatz Les danseurs pour le 20eme siècle

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Boris Charmatz Les danseurs pour le 20eme siècle

Charmatz はレンヌ・ブルターニュ国立振付センターのディレクター。オペラ座バレエ学校を経てリヨンのコンセルバトワールに学び、その後フランスコンテンポラリーダンスにおけるヌーベルバーグおよびNon-danseの潮流の旗手と呼ばれている。1973年生まれの若手で、オペラ座ディレクターのMillepiedとは友人だそうだ。(舞台に限らない)様々なシーンでのダンスを模索してきた
Charmatzの今回の企画は、ガルニエのあちこちを使って、観客にと交流ができるような近い場所で、20世紀の様々なダンスを振り返るというもの。ダンサーたち自ら作品について説明をし、小さなアンプで音を出し、自由な衣装(多くはスウェットや稽古着のようなものである)で踊る。
この企画が目指すものは、このような形式で踊ることで、「図書館でどうやって踊るの?」「ホール入り口では?」という問いを通し、言葉や動き、また、場所について省察を試みる、ということである。そしてこの上演方法を通し、いかにダンスの歴史が豊かで生き生きとしたものであったことかということを様々な場所で(再)発見しよう、と。脱コンテクストの試みということだろう。
実際に見てみた(というよりこれは「体験してみた」というほうが適切だ)ところ、これらは実現されていたという印象である。あるダンスがそのダンスが演じられるとされているはずである場所ではないところで、衣装も、距離感も違うところで演じられることで見る側には新鮮な驚きと発見があった。そしてそれは演じる側にも間違いなくあったという印象を受けた。いかに我々が固定された文脈とともに作品を見ているかということを再認識する作業でもあった。
とりわけ新鮮だったのが、廊下で踊られていたチャップリン、バリウッド、そしてまったく今まで見た形式とは違った瀕死の白鳥。
ダンサーにインタービューすることも可能だ。外のテラスで踊っていた若手ダンサーに、この企画をどう思うか?と聞いてみたところ、観客と交流ができるのは(普段と違って)非常に大きな喜びである、とのことであった。普段上演場所がかなり固定されているオペラ座にとってとても新鮮な企画だった。


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by chihiroparis | 2015-10-15 14:50 | ballet+danse | Comments(0)

バットシェバダンスカンパニー Batsheva dance company DECADANCE

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バットシェバダンスカンパニー(イスラエル)DECADANCE
NDT、CND、オペラ座・・・世界中のトップカンパニーに請われる振付家、オハッド・ナハリン率いる今世界でもっとも熱いカンパニーとも言えるバットシェバの来日公演@愛知芸術劇場。私にとっては昨年12月にChaillotで見たNaharin's Virus以来。

今回のDECADANCE(DECA=ギリシャ語で10+DANCEの造語)はナハリンの監督就任10周年を記念した作品で、彼の作品の抜粋をつなげた、いわばベスト・オブ的なもの。脱コンテクスト化され、ひたすらその言語を楽しめる作り。今まで見たコンテンポラリーダンスのどのダンスとも違う圧倒的な独自性。これがナハリンの確立したGAGAダンスというメソッドによる身体だ。

バットシェバの魅力は、とにかく舞台を埋め尽くす体積だと思う。細い体から絞り出されるような心理的に迫る表現というものもあるし、空間支配が圧倒的な踊り、というときに、それが手足の長さと伸びやかさを使ったものもあるだろう。しかしバットシェバの踊りは、その体積が迫ってくるような踊りだ。内臓を外に出し、心が叫び...感じたリズムとともに体内の全てが放出され、身体が、まるで本来の体積以上の体積を持っているように感じられる。

技術的にこのことは実際にどういうことなのだろうと考えた。私が欧州で見てきた多くのコンテンポラリーにおいて、骨盤と背骨の関係が、程度の差はあれクラシックバレエの基礎である垂直関係から大きく崩れてはいない。エクにしろ、キリアンにしろ、オフバランスでバランスというクラシックに対しコンテンポラリーであろうとしたフォーサイスにしろ。このことは、自由な動きだと思われるものであっても、力学的に上半身と下半身の関係がある程度予測がつくということを意味するのではないか、と今回思った。というのも、ナハリンにおける身体は完全にこの”近代的”力学からは自由で、次の動きは予測不可能だ。要は、思いもよらない形をとるということである。これを、相当な速度で行う。そのことにより、ある程度軌跡が反復的あるいは予測可能範囲内でおさまる上記コンテンポラリーに比べ、不規則で予測不可能な軌跡が描かれ、これが速度により残像として残っているうちに次の思いもよらない軌跡がやってくる。このことで、見ているものは実際の体積以上の身体の体積を感じる・・・そのような印象を受けた。

面白いのは、1(uno),2(duo), 3(tera)...とカウントを増やしながらの踊り。クラシックでいえばエチュードのようなこの作品、1カウントに1動作が入り、カウントを一つずつ増やす動きが繰り返されることで、今度はこれらの残像が先取りされているような感覚に陥る。つまり、1,2,3,4...とくれば見ているものがすでに次の1に行っていて、脳内でぐるぐると動作がすでに軌跡になっているのだ。予測不可能と書いたけれども今度はそれを種明かししていくような仕掛けの魅力に酔った。

とにかくあと何回もみたい作品!とにかく動きを楽しめよ!とナハリンからのメッセージが飛んでくるかのような75分!


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by chihiroparis | 2015-10-15 14:35 | ballet+danse | Comments(0)