Mass b de Béatrice Massin @théâtre national de Chaillot

f0008907_23182949.jpg

シャイヨ劇場でBéatrice Massin による Mass b。
フランスバレエの祖、ルイ14世を描いた映画「王は踊る(Le roi danse)」の振付も担当したバロックダンスの研究家であり振付家の第一人者、Massinは、近年、コンテンポラリーダンスとバロックダンスの接点を探すべく精力的に活動しているとのこと。今回の作品は、各々違った種類の舞踊教育を受けてきた若手ダンサーたちに、バロックダンス及び音楽から受ける印象についてディスカッションをしながら創作を行ったとのことだ。10人の明らかに受けてきた教育が違うとわかる体つきのダンサーたちによる舞台。

前半はなんだか意味のわからない動きも多いが、5-5に分かれて群舞のようにして駆け抜けるように動く時が面白い。Pasがワルツだったりフォーメーションがバロックダンスのそれを大きくしたようなものだったりしたものだということがわかる。後半に向けて段々と動きが大きくなり、彼らはほぼ走りっぱなし(!)となるのだが、あくまでバロックのPasなのにバレエや現在のコンテンポラリーダンスのようなダイナミックな規模の動きになっていき、最高の盛り上がりを見せる。この辺りになるとダンサーが興奮を表しているのか奇声を発したりしている(バロックダンスって掛け声とかはあるんですかね)。まさに「(当時より訓練法が進化した)現代の舞踊身体による現代的バロックダンス」で、こうなると(前半眠かったのが嘘のように)とにかく面白い。

バロックダンスの現代的理解というとヌレエフが振付たBach Suiteがある。昔Kader Belarbiで見たことがあるが、今思うとあれは現代的理解というよりそのままバロックダンスの新作として作ったものとして位置付けられるかと思う。

余談だが、バロックダンスについては全く無知だったのだけど、一昨年オリビエ・フーレ先生(CNSMD出身のダンサーでありながらバロック音楽で博士号を取り現在大学教授であるという方である)の講演通訳をしたことがきっかけで大きな興味を持った。その話をバロック音楽には随分凝っている弟に話したところ、いろいろとレクチャーをしてくれたのだが、そこでMassinの名前を聞いていたので、今回、お?あの人だ、とアンテナに引っかかって見に行ったのだった。行ってよかったわ。
f0008907_23243194.jpg

[PR]
# by chihiroparis | 2016-03-16 23:24 | ballet+danse | Comments(0)

San Francisco Ballet - Swan Lake

オペラ座からMathilde Frousteyが移籍したりと何かと気になっていたSan Francisco Balletを念願叶って観劇。オデット/オディールはこれも念願のSofiane Sylve、お相手のジークフリートはスカラ座出身Carlo Di Lanno.
結論からいうと、Sofiane Sylve様(さま、って付けちゃう貫禄!)はもちろんのこと、ダンサーのレベルはとても良いのにその他があまりにお粗末で踊りの良さが生きていないと感じた。
最たるものが照明。のっぺりとしていて明るすぎ、何を踊っても発表会のような安っぽさになってしまう。なぜ白鳥をあんな明るい照明でやるのだろう。日本も割と文化的な理由(家の中など全体的に生活の中での照明が明るい)からか、舞台が明るすぎて雰囲気がないと感じているけれども、それ以上だった。
Helgi Thomassonの振り付けだが、舞台が狭いから仕方ないのかもしれないが、やたらと振付が簡略化してあるのが気になった。跳躍にしてもなんでもそうだが、一度目、二度目、三度目があるから踊りに強弱がついて舞台が立体的に見えるところを、どれも、ここぞ、という盛り上がりのところで後退するパになったり細かいパが省略されがちなので、舞台に膨らみがなく止まって見える。ダンサーのレベルからしてもう少し複雑なパでもこなせるように思えたのでもったいないと思った。
芸術性よりも、いかにストーリーをわかりやすく伝えるか、という作りを重視しているところがアメリカらしい。芸術と言うよりはパフォーミングアーツだ(その違いは何か、ということは今日のところは突っ込まないでほしい)。例えば、ある女の子が悪魔の魔法で白鳥に変えられてしまったという有名なこのストーリーは、2幕オデットの美しいジェスチャーによってではなく、実際に女の子が出てくることで語られる。
何もかもが説明的に語られる。先日もJerome Belの時に書いたが確かにクラシックバレエは約束ごとが多く、それを共有しないことには理解できないことも多いとも言え、特権的な文化と言えないこともない。誰にでもわかりやすい演出、というのはそのようなクラシックバレエに対してアメリカ的なアプローチだと感じた。しかし、語りに見る側の想像の余地を残すことで生まれるものの豊かさについても考えるきっかけとなった。ミロのヴィーナスの腕はないからこそ人々の想像をかきたてる、というあれか。
Sofiane Sylveはとにかく見たこともないような白鳥を演じた。ロシア派にもああいうのはいないし、ヨーロッパスタイルでもない(ましてや、派手な技術を見せるアメリカンででもない)。流麗で雄弁な腕づかいは、唯一無二のものでセリフのようだった。白鳥であり人間であるというオデットそのもの。そして黒鳥オディールでは王子が食われるんじゃないかという貫禄。ああこの方が踊れるうちに見られたことが幸せ。
王子Carlo Di Lannoはスカラ座仕込みの端正な踊りで美しいダンスノーブルだが、演技力に欠け、突っ立ったまま、という印象なのが残念だった。4幕、オデットとロットバルトが縦に横にと物語の盛り上がりに合わせ素晴らしい大きな演技を見せているところ、彼だけが垂直立ち。フランス語で言うところのscolaire(「学校的な」。とても上手だけど何か心に訴えるプロの踊りではないという意味合い。)な踊り。
アメリカってこう言うものが好まれるのか・・・と、舞台に求められるものの違いを感じつつも、バランシンなどきっとこのカンパニーの強みが出る演目でまた見てみたいと思うようなダンサーのレベルではあった。
[PR]
# by chihiroparis | 2016-03-04 03:50 | ballet+danse | Comments(0)

Carolyne Carlson "Pneuma" Ballet de l'Opéra National de Bordeaux

f0008907_0584340.jpg
Carolyne Carlson "Pneuma" Ballet de l'Opéra National de Bordeaux, Théâtre de Chaillot
国立ボルドーバレエパリ公演でカロリン・カールソン「Pneuma」。場所はカールソンカンパニーがこの2年間レジデンスとして活動しているシャイヨ劇場。(レジデンスになるということでカンパニーができたそうだ)
Nouvelle danse francaiseの旗手であるCarlsonは、シーンを絵画のように作るのが作風(オペラ座が日本公演も行ったので有名な作品「Signes」など)。今回の作品はGaston Bachelardの詩(L'air et les songes)を題材にした「詩の視覚化」だということだ。
舞踊言語の追求と言うよりも絵画のような舞台だということだけれども、それだけに言語は非常につまらない。ボルドーバレエという、普段もっぱらクラシックバレエをレパートリーとしているダンサーたちにより踊られているため、身体が振付を最大限豊かに活かしているとはいい難いのも残念さに拍車をかける。
プログラムにも色々と観念的な説明はしてあるのだが、では肝心な視覚化、全体を絵画とした時に受ける印象だけれども、どこか私には90年代バブル風に感じられた。一言で言うと、「ダサい」。空想の世界を表現しているという舞台のその「絵画」観としては、これも90年代によく来日展が開かれたルネ・マグリットに近い。(別にかといってマグリットを批判するわけではない。)途中何度か出てくる重要な登場人物の衣装がとにかくどこかバブル期的で安っぽいデフィレを見ているかのようだ。Bachelardの哲学を私は知らないし、理解していないだけと言われればそれまでだが、志は色々あるみたいなのだけれどもこれでは本屋さんの棚が「哲学」から「倫理」を経てなぜか「スピリチュアル」も隣人化している並びのような感じで(←某巨大書店での実話)、似て非なるものというか。
Nouvelle danse francaiseも結構面白い人も出していて好きな振付家もいるし、こう言う傾向の舞踊が流行ったこともよくわかるのだが、2014年の創作だというこの作品、時が止まったままのようなものだった。Carlson、もう70過ぎだということだ。しかしチケットは完売、カーテンコールの会場の反応は熱かった。フランスじんってこういうの好きなのね。
[PR]
# by chihiroparis | 2016-02-20 00:59 | ballet+danse | Comments(0)

Jerome Belの問い:「Tombe」

ガルニエでは3演目が上演中。毎回物議をかもすJerome Belの上演を含め、この劇場がクラシック・コンテンポラリー両方で頂点にいようとする意欲を感じた。

ジェローム・ベルのTombe。
ベルのプロジェクトはこうだ。3人のこのプロジェクトに参加するダンサーがそれぞれ、舞台に上がったことのない人を探してきて共演するというもの。

幕が開くとジゼル2幕のセット。Gregory GaillardがHendaという黒人女性を連れて入ってくる。彼女は彼が毎日通っていたスーパーのレジをしていた人で、今はベビーシッターである。劇場を全く知らない彼女に彼がその仕組みや歴史を説明する。ジゼルの墓石は木でできていることが説明される。セットは場面転換のために上げることができ、上がると後ろのフォワイエで次の作品に出るダンサーたちが準備運動をしているのが見える。主役にのみ当てられるスポットライトについての説明の後で、スポットライトを当ててもらいながらHendaが自分のiPhoneの中に入ってた曲(中東系)でGregoryと踊る。Gregoryはスポットライトから出たり入ったりしながら踊る。
そこで二人は舞台下手によけ、次にSebastien Bertaudの演じるアルブレヒトが登場する。ジゼルが出てくる。車椅子に乗った、片足のないダンサーである。二人がアダージオを踊る。場面が転換し、次にBenjamin Pechが出てくる。
今回のプログラムで引退する彼が相手に選んだのは84歳のSylvianという女性。バレエを60年もの間見続けてきた人である。来ると必ず上手一列目の辺りにいたとか。24年の彼のキャリア中ずっと、見にくると必ず公演後にはアーティスト出口で彼を待ち、一言二言、感想と励ましの言葉をかけて帰っていたという。
創作が始まった2015年2月には元気だったのだが入院してしまい、今回は彼女が倒れる前最後のリハーサルを録画していたものを上映しそれを見ながらバンジャマンがコメントをしていくという形になった。
Veronique Doineauなどこれまでも物議をかもす作品をガルニエで上演してきたベルだが、彼の興味は観客と舞台・作り手・場の関係性に強くあるようだ。我々が慣れきった方法で、劇場に着き、虚構の世界に入る、という一連の行為を解体するかのように、ジゼルの舞台装置の裏側を見せる。
あるいは、彼の疑問は、表現的する身体とは何か、というものでもあるようだ。車椅子のダンサーのジゼルと、アルブレヒトのアダージオは、感動的だ。そのジゼルは"普通の"ジゼルより軽やかだ。とりわけアルブレヒトが彼女の手をとってぐるぐると舞台いっぱいに回る時など、速度もあって二人の想い合う気持ちがオリジナルとは違う形で迫る。もちろん、見るものにオリジナルのベース知識を要求しているものではある。例えば、"アラベスク"の場面。後ろ足はないけれども、伸びているように感じられる。最後に彼がジゼルの膝に抱かれて退場するところは感動的だ。オリジナルで彼女が墓に入りながら花を彼の頭に落とすことで見せる包容力と同様の意味がある。

コンテンポラリーというものはクラシックとは違う身体のあり方を模索し提示してきたのだと思うけれども、これも一つのコンテンポラリーなのだろう。歩くのもおぼつかなくなっている年齢のSylvainとBenjaminのアダージオしかり。近代的に訓練された身体の頂点でもあるオペラ座で、こういう表現身体を見せることの意味を考えた。

彼はまたこの虚構世界の作られ方・関係性について考えている人である。この作品は他の、コンテンポラリー用の、例えばTheatre de la villeなど大衆化した劇場では成り立たない。ここでやることで彼の質問が成立する。
しかし、会場は半端ではないブーイング。ひどい時は、終わるのもまたずにGregoryとHendaの後に「金返せ」と。またある時は、Gregoryが「最初はトビラを考えたけど彼女忙しくてダメだった」っていうと観客がどっと笑うところあるのだけれども、終演後に一人のクラシカルで綺麗な格好したムッシューが「トビラを馬鹿にすんな!仮にも大臣だぞ!」って叫びまくっていたりと。そしてこれに応酬する人あり。まるで映画「天井桟敷の人々」の劇場のようである!

ここで考えたこと。一生に一度、初めて大金を出してきたところでこの舞台を見されられたらどう思うだろう、と。舞台芸術を成立させるには、作り手と見る側に多くのコードの共有が必要だ。この作品の意図を理解し、ブーイングに対抗して拍手していること自体がとても特権的なことなのだ、という事実を突きつけられたような気がした。それが彼の我々に対する問いなのか。

なんとも言えない気持ちだった。誰が見ても、初めて見ても感動する舞台というものはある、と普段思っているけれども、そんなことないんじゃないか、とか、大衆化のために様々な策が出されているけれども、その時にでは上演される作品ってどういうものであるべきか、だとか、もやもやと様々考えながら幕間を過ごす。

それにしても激しくブーイングしたりとかそれに対して言い返したりとかということは日本の劇場では起こらないので面白い。こうやって無言であるいは声に出して問いを繰り返す場であり問いを提供する場でないとね、舞台はね、というベルのメッセージが聞こえてきたかのようだった。
とりわけ今回はトリプルビルの残りの一つがLes Variations Goldbergと、音楽的に普段「ミンクスなんか聴けますか」というスノッブな人たちなんかも来ていたと想像する。大金をはたいて滅多いにない機会として来た人もいれば、そう言ったスノッブ人たちもおり、これは推測だが、およそ後者が「オペラ座に」期待するものとは思えないものが上演された、ということなのだろう。

ちなみに障がいとパフォーミングアーツというシンポジウムが今度日本でも開催されるようだけれども、フランスでは病院内での(舞台を作ってではなく廊下など日常の場)上演などがあるようだし、精神疾患患者とのコラボなどがあるそうだ。今回のベルの作品により、障がい者とコラボレーションした舞台についてどこか善意・福祉・インクルージョンだとかいうワードの文脈が多いと勘違いしていたこういった分野が、そうではなくてオリジナルを超える可能性があるということを知った。義足によって膝下が長くなってモデルとして活躍した女性のことなんかを思い出させられたりもした。
[PR]
# by chihiroparis | 2016-02-15 03:04 | ballet+danse | Comments(0)

Naharin's Virus (バットシェバ・ダンス・カンパニー)

f0008907_16440678.jpg
2014年12月、Chaillotで行われたバットシェバの公演「Naharin's Virus」の写真が出てきたのだがまだこのあたりのはエントリーしていなかったようなので記録にup。
この公演の後、2016年1月にバットシェバはガルニエ公演を行い話題となる。だいたい例えば歌舞伎にしてもシャイヨの2年後に記念すべきガルニエ公演となったわけでその見事な連携ぶりにはいつも驚かされるけれども、そこには劇場のディレクター同士の良い人間関係があるそうで最近そんなことを人に話を聞いてなるほどと納得したところ。

Naharin's Virus 。ひたすらに詩が詠みあげられる中進む。ここでは仏語。訴えを聞いているような、時に諭されているような、短文の連なりの渦に巻かれる。アラブの音楽を使い、アラブ人の多い地域での公演を試みたという作品。


[PR]
# by chihiroparis | 2016-01-24 16:56 | ballet+danse | Comments(0)

「ステーキ・レボリューション」

f0008907_20415556.jpg
最近見た映画の中でもっとも面白かったと声を大にして言いたい映画。
煮込み料理が中心だったフランスでは赤身肉がメジャーなのだが、焼くと固くなるそれを「遅れている」と考えたフランス人監督が、世界一のお肉を求めて、いや、「世界一のお肉」の定義を求めて、世界中を旅する。
アメリカ、アルゼンチン、イギリス、日本、スペイン、イタリア・・・
3ヶ月で育つ肉牛から、なんと15年ものの肉牛まで。
サシか赤身の味わいか。
どんな環境で育てるか。オリーブ作り農園との自給自足・自己完結型エコロジー牧場があれば、牛の味は種ではなく性格だ、といい、穏やかな性格の牛を見抜いて選んでくる目利きのスペイン名牧場主など。
どこも行って一度はそのお肉を味わってみたくなる欲求にかられる魅力に溢れている。
中でもコルシカのレストラン、うーん行ってみたい。あ、シュラスコも食べたいな。

DVD出たら買うレベル。間違いなく永久保存版!
ちなみに日本版の宣伝はちょっと軽めでこのドキュメンタリーの本当の面白さが十分には伝わってないような気がするのがちょっと残念。




[PR]
# by chihiroparis | 2016-01-23 21:08 | cinema | Comments(0)

「ロミオとジュリエット」シュツットガルトバレエによるクランコ版/マリインスキーバレエによるラヴロフスキー版

最近の情勢に心を痛めつつ、平穏に劇場に通える状況に心から感謝をし、傷付いた人を想う。そんな中で見たシュツットガルトバレエによるクランコ版、マリインスキーバレエによるラヴロフスキー版「ロミオとジュリエット」。

誰もが認める名作マクミラン版50周年だからかしらないが、今年はやたらとロミオとジュリエットの上演が多い。マクミラン版もヌレエフ版も何度も見ているが、シュツットガルトによるクランコ版も抜粋を除き全幕は初見だし、その原典となったラヴロフスキー版も初見だ。

現在のマクミラン版につながるロミオとジュリエットの歴史は、
ラヴロフスキー(マリインスキー)に始まる。プロコフィエフの音楽と各シーンの構成はこの版から全く変わっていない。
→クランコ(シュツットガルトをこれで一躍演劇バレエに優れたカンパニーとして有名にした)
→マクミラン(クランコの弟分で、英国ロイヤル)
→ちなみにこのマクミラン版の初演を踊ったヌレエフによるヌレエフ版(オペラ座)
となっているが1シーズンでいっきに見られる年も珍しい。3月のヌレエフ版が楽しみ。そして、写実性の発展という点を、ディアギレフによるバレエリュッスからみるのも面白いが、こうして一つの作品の変容を見ながら追うのも面白かった。
***
舞踊言語の発展と音楽性の豊かさの関係を見ていくのにこういう版を追うのは本当に面白い。ラヴロフスキー版では基本的なパの組み合わせが多く、つまり音も古典的なパに対する使い方に制約されるため、音をまだまだ使い余している。(我々が現在様々な作品で見ている舞踊における豊かな音楽性というのは、舞踊言語の発達によるものが大きいということが確認できる。)そしてこの版においては演劇性はその他のところで追求しようとしているから舞踊と一体化していない。

これは一つの踊りの中でもだし、場面という、より大きなくくりにおいても言える。パダクシオンとそれ以外の踊りとが物語的には融合していない。いわゆる典型的な古典の形式である。それが、踊りの部分で登場人物の心情を描くようになってきたのが、クランコ以降だと言える。パダクシオンとパドゥドゥの役割の逆転というのがクランコあたりから起きてきたようなのである。そして、「語れるもの」の幅の広がりを作ったのが(あくまでクランコを踏まえた)マクミランだなぁと。
つまりラヴロフスキー版とクランコ版の(私の中での)絶対的な違いは、前者は「バレエを見るぞ」とこちらも形式にのっとらないと感情が読めない、後者はそうは思わなくても演劇を見ているつもりで見られるということだ。

それは、愛している、ということを言うのには薔薇を100本用意するのですよと決まっている文化があるとすれば、100本用意してロミオが立っているのがラヴロフスキー版であり(古典バレエの言語)(それを見て我々は愛の告白だと全員が感じ取る)愛している!と直球でいうのがクランコ版であり、そして、直接的表現のみならず、人を愛する時のどうしようもない高揚感までを描いてしまうために登場人物の心情が手に取るようにわかるどころか我々まで人を愛しているかのような感情にさせ、作品に巻き込むのがマクミラン版だ。
マクミラン版がこの先100年でも200年でも演じられるだろう名作だということは私が言うまでもないが、どこが優れているのかと考えたときに、この、形式的な舞踊言語(意味を共有して見る)→直接的・写実的表現のあと、→これに加え比喩的、しかも「誰もがわかる比喩」への展開、があったことではないかと思う。先日のマクミラン版の中継幕間のインタビューで、初演のドナルド・マクレアリー曰く、マクミランは「ダンサーがダンサーらしいあの一番ポジション(足を外旋して立つ)で立つのを嫌がった」と、写実的・現実的であることを求めたエピソードとして語っていたことからもこれは伺える。
やはりこの最後の振り付けの発展(クランコ→マクミラン)が飛躍的。スケートが好きだったというマクミラン卿、困難を極めるリフトの多用も比喩的表現を高めている。

***
ヌレエフ版は、彼が初演したマクミラン版の影響を振り払おうと頑張った感がどこから来ているのか不勉強にてわからなかったのだけど、ラヴロフスキー版にかなり影響を受けていたのだなと理解した。ソ連時代の影響あろう。
ラヴロフスキー版も、それを踏まえたのであろうヌレエフ版も、若者にスポットをあてて二人の恋の悲劇にせずに最後に両家が手を取り合い融和を予感させるところまで描いているのが、非常にロシア的。(当局が話の終わり方に口を挟んだというエピソードには事欠かない国なわけで)
ティボルトの死んだ時のキャピレット夫人の描き方が、クランコ版ではジゼルでの狂気の描き方に似ていて、舞踊的な形式の踏襲が見られた(髪の毛が乱れふり乱す、服の前ボタンをはずし突然はだけることで狂気を表す)が、ラヴロフスキー版では、自らええいと髪をほどき、振り回す。そしてティボルトの乗せられた担架に同乗し(四人の男に担がれる)劇画調に荒れ狂いながら去っていく... この場面に限らず舞踊言語が非常に古典的で表現も形式的。いかにその後の版が写実的になっていったかわかる。ああそれから、なぜ甥のティボルトの死をそんなにもキャピレット夫人が嘆き悲しむのか、近親相姦的に描いた版がたまにあるのはなぜか、という点、演劇の人に聞いたところ、昔の上流階級ではおばに当たる人が最初に手ほどきをしたとかいう話も聞いた。シェークスピアのオリジナルはどうなんでしょう、そのうち読んでみないとと思いつつ。

様式的な動作の多いラヴロフスキー版を現代において見る時に壁となることとして、その後の写実版を知ってしまっているので、特にロミオの人物像が、ロミオという意味では描ききれていない感じがする。それよりも、典型的なバレエの二枚目、もっといえばソ連的英雄的男性、という色合いが強く見えてしまう。
場面転換ごとに登場人物が暗転の前に見え切りをするのも面白い。歌舞伎に似ている。とにかく様式美重視。そんな版だった。それでも当時はその演劇性が画期的だったのだろうと推測する。

それから、群舞、特にキャラクターダンスが、古典のそれのままだった。全てはパドゥドゥに到達するための群舞、とマクレアリーが言ってたと思うが、古典におけるとってつけたような群舞だったものが、マクミラン版になると物語を進めるための強い「ストーリーの背景のようなもの」になっていたということだ。
今回原典まで戻ることで、マクミラン版の優れた点がどこにあるのか、演劇バレエと古典バレエの違いが、具体的にはどのような技術や構成にあるのかということがわかったような気がする。


[PR]
# by chihiroparis | 2015-11-30 20:24 | ballet+danse | Comments(0)

シュツットガルト・バレエ「オネーギン」

シュツットガルトバレエで「オネーギン」。

ふと我にかえると、昔そんなに好きだったからといって一度あんなにも冷たくされた男に、後年そこまで愛を請われたからといってまた火がつくか???と思うのだけどすっかり引き込まれて涙してるんだから舞台の熱量とはまったく。本家の凄さを堪能した。1幕あの難度の高いリフトの続く鏡のパドゥドゥに圧倒され既に感動のあまり泣き始め、3幕終了後呆然とただただカーテンコールの間涙を流していた。しばらくなにも他に見たくない。それにしても毎度演技力では素晴らしいことこの上ないこのカンパニー。バレエとは踊りの技術だけが全てではないと改めて感じる。
***
原作はプーシキンの小説「エフゲニー・オネーギン」。オペラ化されているのでそちらのほうが知られているかもしれない。バレエは1965年にジョン・クランコがシュツットガルトバレエ団に振付け、初演された。クランコの演劇バレエの最高峰と言える作品。
***
舞台は19世紀前半のロシア。都会から田舎にやってきたオネーギン青年はレンスキーと仲良くなる。レンスキーの許嫁オリガの姉タチヤーナは夢見る文学少女だが、オネーギンに恋をする。タチヤーナは恋文をしたため自らの誕生会にて彼に渡すが、タチヤーナに惹かれつつも田舎にうんざりしており屈折した青年オネーギンは冷ややかに断る。いじわる心からだろうか、オルガと誕生会で踊るオネーギン。オリガもちょっとしたおふざけとして踊っていたのだが、レンスキーが激昂し、思わずオネーギンに決闘を申し込む。決闘の日。撃たれて死んだのはレンスキーだった。友を撃った悲しみと後悔に打ちひしがれるオネーギン。
数年後、オネーギンは、グレーミン公爵夫人として華々しく社交界で活躍するタチヤーナと再会し激しく心を奪われる。愛していたのだと気付きタチヤーナに愛を請うも拒絶される。

***

バレエ的な見どころは、1幕2場、恋をしたタチヤーナの夢の中でのオネーギンとの恋のパドゥドゥ。アクロバティックな振り付けにより恋の高揚感が描かれる。内気なタチヤーナだが文学少女として大きな情熱を内に秘めていることが表される官能的な場面だ。3幕最後のオネーギンが髪を振り乱し我を忘れてタチヤーナに愛を請う場面のパドゥドゥは秀逸で、しばしばガラ公演でもここだけ上演される。
***
オネーギンにフリードマン・フォーゲル。童顔だからこういうのにはきっと向かない、と思い込んでいたが、久しぶりに見たらすごい役者に成長していた。タチヤーナにまだ23才の新星スペイン人ダンサーのエリサ・バデネス。いくらなんでも若すぎるかと思ったけれど、この作品が実はかなり身体能力が高くないと表現しきれないものがあることを認識させてくれた。主役二人の息がぴったりで、特にリフトが驚くべき滑らかさ。二人が滑らかに組み合うことで表現されるものがまだこんなにもあったのか、と、パリ・オペラ座でしか見たことがなかったため、何か全然違う作品を見たような発見に溢れていた。
レンスキー(パブロ・フォン・シュテルネンフェルス)。この役の理解はどうやら文化やカンパニーにより少し違うようだ。オペラ座では、いかにも優しい(だけの)青年、という容姿の人が選ばれることが多いのだが、シュツットガルトのレンスキーは、優しさといってももっと男臭さがある人間の持つそれだという理解のようだ。彼が嫉妬から思わず勢いでオネーギンに決闘を申し込んでしまうところも、男がカッとなった感がこのレンスキーだとよく出て説得力があった。2幕のソロは後悔の念が身体から絞り出されていて出色の出来。その後姉妹が来ると急に男のメンツでいきがるあたり、演技の差がレンスキー像を深める。
レンスキーといえば、レンスキーと姉妹の、誕生会終盤に決闘が決まってからの3人の踊りの組み合い方が、様式的になっておらず、彼の激昂した様子がここでもよく表される。

全体的にすべてが様式的にならずその動き一つ一つに意味があることが伝承されていることを強く感じた。まるでセリフがあるかのように。どのカンパニーでもそうだが、本家がやると、伝承されているものの質と量が違うことが感じられる。見せ場だけでなくディテールがいかにストーリーを構築するのに重要かということだ。

フォーゲルのオネーギンがとにかく良い。性格がいかにも悪そうだし、レンスキーを撃ってからの落胆の仕方も、そんな斜に構えた男の心の弱さを一瞬で表現している。3幕のタチヤーナへの愛に気づいた動揺からのなりふり構わない請い方ったらない。どう見えるのかなど気にしているようじゃここまでできない。
ここで自らが請われるタチアナのバデネスはここで若い容姿にもかかわらず溢れる人妻感を出した。これに至るまでのグレーミンとの愛の描き方が優しさだけでなく依存的な要素があることを見せたのも効果的だったのかも。
なんで今頃、と揺さぶられるタチアナ。見てる方まで、だめ、いややっぱり好き、というタチアナの心情の揺れに一緒に引き込まれてグラグラした演技だった。ここの場面、感動的ではあってもこんなに共感で引きずりこまれたことはなかった。
3幕パドゥドゥではキスまでの流れがこの主役二人の演技では抗い難いほどの熱情の高まりが感じられた。それでクレッシェンドしきって、一転、一気にタチアナが断ち切る。この落差で決別という意志の強さが伝わってくる。
バデネスのタチヤーナは他にも、2幕幕切れ、レンスキーを撃ったオネーギンに対して頭をきっと持ち上げることで表す侮蔑と決別の意志のような表現が特によく、やっと今回彼女の心理がストーリーとして理解できた。
オリガは非常に難しい役だと気づく。おふざけでオネーギンと踊るあたり、オペラ座の女性陣によるものはニコニコしているだけでわかりづらかった。この辺りは表情だけでなくちょっとしたリフト的な絡みとか押し引きのし具合が重要で、それはなかなか言葉では説明しづらい。それがストーリーをこんなにも際立たせる。
とにかくフォーゲルが良い。相手を目でも身体でも心でもきちんと見て向き合って踊るところがいい。演劇だものこれ。舞踊という言語を使った。


[PR]
# by chihiroparis | 2015-11-28 22:24 | ballet+danse | Comments(0)

Hugo Marchand プルミエ・ダンスールに

今年上半期にてすでに、きっと彼がもっとも今年私を感動させてくれたダンサーだ、と確信させるような舞台を「マノン」で見せてくれた男、 Hugo Marchand(ユーゴ・マルシャン)が恒例の11月の昇進コンクールにて見事、1枠しかなかったプルミエ・ダンスールの枠を勝ち取りました!今年の活躍ぶりと、とりわけ演劇バレエで生かされる彼の突出した才能からしてみれば当然かな、と思いつつも、他のスジェクラスの男性ダンサーも非常に充実している現在のオペラ座、複雑な気持ちでもあり。
というわけでそういえばそんな素晴らしく感動させてもらった5月のマノンの記録がエントリーされていないことに気づき。近日中にまとめてUPします。と予告して自分を追い詰めてみる。


[PR]
# by chihiroparis | 2015-11-11 00:32 | ballet+danse | Comments(0)

ロイヤル映画館中継@パリ Romeo et Julietteロミオとジュリエット, Sarah Lamb/Steven McRae

f0008907_16233693.jpg

Romeo et Juliette, en direct de Royal Ballet de Londres
Avec Sarah Lamb et Steven McRae

今年で初演から50周年記念となるケネス・マクミラン版の「ロミオとジュリエット」を本家ロイヤルバレエから中継。ロミオにスティーブン・マックレー、ジュリエットにサラ・ラム。初演では20分もスタンディング・オベーションが止まなかったと言うのもうなずける、演劇バレエの最高峰作品。

今まで見たロミジュリの中でもっとも透明感に溢れた主役二人に、悲恋に突入する前、恋の高揚感を描いた1幕で既に感動で涙が溢れた。マクミランがもっとも得意とする、人の愛や恋といった感情の視覚化。恋愛をするときに感じるなんとも言葉にできない胸の高鳴りや相手への強い想いが言葉もなく形になって眼前に現れる衝撃。マクミランの醍醐味はここにあると思う。

主役の二人のなんと瑞々しいこと!サラ演じるジュリエットの透明感のある処女性。マックレーのロミオは、少年から大人への移行時期にある独特の繊細さ、大人びていく過程で出る妙な色気がある。特に2幕、マキューシオが殺され、ロミオはティボルトに向け剣を取らなければならないが、ここでロミオは初めて死を自ら請け負わなくてはならない。この訪れた通過儀礼的な場面で大人になることを表す色気めいたものがロミオ役に必要だったということにマックレーのロミオは気づかせてくれた。

何度見ても新鮮に見られるマクミラン版だけれども、今日はこの二人のおかげで、1幕の二人の恋までの過程がこんなにもマクミランによって丁寧に描かれていたのかと気付かされた。触れるか、触れないかという、二人の間にあるのは花びら一枚かなというような出会いから、若気の至りとも言えるラストの悲劇に突入することがまったくもって自然に思えてしまうほどの抑えようのない恋の高揚を描くバルコニーのシーンまでの流れ。このような人生で起こる恋の出会いがいかに奇跡的なことなのか、と感じさせ、既にそこでラストの悲劇への方向性が説得力があるのだった。そのような一幕を見せたカップルはなかなか今まで見た中でもいなかっただけに衝撃的だった。

この1幕を見ながら、ダンサーのキャリアの中で、その人がもっとも良い時期に、身体性や芸術性の合うパートナーに恵まれるかどうかっていうのは本当に運なんだな、ということを考えた。あまりにその意味でベストパートナーであるこの二人が今、こうして最高の状態で、組めるということ、そしてしかもそれがこうして映像に残るという、普段生の舞台をたくさん見ている観客としてはもはや奇跡とも思えることに、心から感謝した。

支えるロイヤルの役者陣。シェイクスピアのお国が上演するバレエとはこういうものか、といつもロイヤルの演劇バレエでは重厚さに圧倒される。
死ぬ時に食べたいもの、ならぬ見ていたいもの、はこの作品のバルコニーの場面かな。今日バルコニーの場面を見ながら、好きなバレエがあれば何もいらないな、と本気で思ったりした。そのくらい圧倒的な作品だし、今晩の上演は自分の観劇史に残る上演だった。3幕はちょっとあっさり気味だったけれども。

ヌレエフ版との比較の中で出てくるロミオやジュリエット像の違いなどについては以前ABT(ホールバーグ&オシポワ)で見た時にまとめてあります。http://danseparis.exblog.jp/16368361/

日本でも11月7日、映画館で上映あり。絶対に見逃せないプロダクション!


[PR]
# by chihiroparis | 2015-10-20 16:33 | ballet+danse | Comments(0)

Sylvie Guillemシルヴィ・ギエム引退公演 Life in profress @TCE

f0008907_16212997.jpg

100年に一度のダンサーなどと評されることも多いシルヴィ・ギエムの引退公演「Life in progress」最終日。そのタイトルの通り、常に開拓者であり革命者でありあるいは反抗者?でもあり、前に進み続けたギエムらしい、まったく懐古的な面のないという潔いプログラムだった。50歳の彼女の「今」を見せるという斬新なもの。プログラムは、Techné(アクラム・カーン)、Here&After(ラッセル・マリファント)、Bye(マッツ・エク)の3作を本人が踊り、間にDuo2015(フォーサイス)をフォーサイスカンパニーのダンサーが踊った。
クラシックバレエをまだ踊っていた頃から現在に至るまでの彼女の数々の舞台を思い出しながら、この人はその出来すぎた身体(もちろん本人の努力にもよるものだが)で表現できるものがもっとあるのではないか、と常に挑戦し続けた人だったなと考えた。
その脚は上げてるんじゃなくて上がってしまう。彼女を見ていると、上がったものではなく上げようとするその力学に美ってあるんだなと気づいたし、何をやってもあまり表現者として魅力的だと思ったことはなかった。ただただ、その並外れた身体と驚くべきレベルに磨かれた技術のほうに感動を覚えたものだった。ロイヤルで演劇バレエを踊るも、女優としてはあまり魅力的だと思えなかった。だからクラシックを離れてコンテンポラリーを中心に踊るようになってからのほうが、彼女は自分の身体から生まれる表現の可能性にもっと挑戦しているようで、魅力的だった。
カーンの作品では地を這い魂を外に吐き出すように内なるものを発信しようとしていた。無機質な、というのが彼女への褒め言葉でもあり同時に批判的評価でもあったと思うが、決してそんなことはないと内臓までさらけだしたように踊った。
同じ激しさでも一転、マリファントの作品では、いわゆる彼女の体操的に秀でたもの、極限の身体性で魅せる。この人がこれでもう引退をするとは考えられないような、今でもその辺の若手ダンサーには到底真似できないような身体・筋肉の動き。ひたすらギエムの身体を創造物として楽しむのはこの作品だろう。
マッツ・エクの作品は、2年前のギエム公演の再演。これを見ながら考えたことは、パートナーに恵まれなかったダンサーだなということ。孤高ゆえに孤独のダンサーだった。それはもちろんその身体が他の誰もが組めないほどに突出して秀でていたから。踊りはバランス。ルテスチュのようにダンサー生涯この人ひとり、というような貴重なパートナーシップを築ける相手に出会い、歴史に残るInterpretationを残す人たちもいれば、いろんな人と組んで様々な魅力を出してキャリアを終える人もいる。いろんなタイプがいていいと思うが、なんていうか、この人に本当に匹敵する男性ダンサーがいたら、どうだっただろう、と思うのだった。そして、国家的損失とも言われたけれども、あのままロイヤルに移籍せずにオペラ座にいたらどうだったのかな、と。女優的に開花する彼女を見たかった気もする(ロイヤルでアシュトンを踊ったりももちろんしていたわけだが)。
エクの作品は、出演は彼女だけなのだが、映像で幾人もの人が出てくる。最後はその人たちの中に彼女が一緒に混ざって、消えていく。彼女の孤高すぎたキャリアを振り返りながら最後にそういう締めで終わったこの作品のラストが、心にしみた。振付家に与えられたものを通し表現するもの、振付家と自らコラボしに出かけ何かを表現しようとするもの、古典作品の中で自分だけの表現をしようとするもの、いろいろいると思うしキャリアはその一つだけでなされるものではないが、彼女は、こういう言い方は勝手かもしれないが、おそらく自分の身体を明らかに"持て余していた"と思うし、そのため振付家のところに積極的に出向いていきその身体が挑戦できる表現を自ら開拓していた。表現への挑戦とアンガージュモンとをし続けたダンサーだったと思う。その意味で、主張は受け入れられないけれども、シーシェパードの件も、最後の舞台においてもそんなブースが会場に出ていたのも、なんだか彼女らしいと思った。
スタンディングオベーションが続き長い長いレヴェランス。彼女を体操のオリンピック選手養成コースからオペラ座バレエ学校に引き抜いてきたベッシー女史が花束を持って現れる。最後に、サプライズ。係りの人に導かれ舞台袖の椅子に座るように言われ彼女が座ると、出て来たのはギヨーム・ガリエンヌとニコラ・ルリッシュ。カリギュラでドラマトゥルグとしてニコラとコラボしたガリエンヌによる朗読。ニコラが、彼女と最初に踊ったというドンキホーテのバジルの最初のヴァリエーションを朗読にのせて踊る。そして最後に「僕たちはシルヴィのおかげで出会ったんだ」と締められる。ギエム、ここで感極まって泣いていた。感動的な瞬間だった。
かつてのパートナーとしてはイレールもきていた。思い出すなぁ、ロイヤルに移籍した後、ゲストでマノンを踊りにオペラ座に来たときに組んだ相手はイレールだった。1幕で馬車から降りてくるマノンの出の場面でのギエムの光り輝いていたこと。フォーサイスのIn the middleで物議を醸したのもイレールとでしたね。なかなかこの二人も切れ味が合ってていい組み合わせだった。やっぱりオペラ座に残ってもっといろいろ踊ってほしかったかなという気もオペラ座ファンとしてはしたけれども。本当にしかし、常に引退まで前衛でいたという粋なダンサーだった。
f0008907_16211828.jpg
f0008907_16205960.jpg
f0008907_16210877.jpg
f0008907_16204957.jpg

[PR]
# by chihiroparis | 2015-10-20 16:21 | ballet+danse | Comments(0)

Claire ChazalさんTF1ニュースから降板

f0008907_14580474.png
(画像はこのことを伝えるニュースからお借りしました)
20時のニュースといえばFrance2かTF1ですが、TF1の週末の20時の顔、クレール・シャザルさんが突然降板。
なんと24年間勤めてきたといいます。降板は本当に突然でした。理由はいろいろ取りざたされています。
バレエファンとしても知られ、オペラ座で、そして街のバレエスタジオで、よく見かけますがとても素敵な方でした。
最後の放送での周囲や視聴者に対する感謝のメッセージの感動的だったこと。
次はどこでお会いできるのでしょうか。お疲れさまでした。



[PR]
# by chihiroparis | 2015-10-15 15:05 | atualites | Comments(0)

Jiri Kylian Trois chefs-d'oeuvre @L'Opera de Lyon

f0008907_14535145.jpg
f0008907_14540038.jpg

L'Opera de Lyon でJiri Kylian Trois chefs-d'oeuvre. 彼の代表作3作品を上演。さすが、と唸る良い構成だった。

名作Bella Figura. 最近パリで上演がなくて寂しいが2000年代初頭にはオペラ座がよく上演をしていた作品。この作品を見ると、身体の神秘を胎内で感じているような気分になる。その胎内は大きなゴシック教会に入った時の祭壇のほうに向かって吸い込まれるような感じでもあり、宇宙の広がりのようでもあり。そこで、人と人が「心」でコミュニケーションするのではなくて、もっと原始的に、そう、生物的にやり取りをしているように思えてくる。それは体を開いて、そこから取り出した心臓と心臓がドク、ドク、とデュオでコミュニケーションしているような。グロテスク?いや全然違うのです。深淵で。生が聖なるものであると感じられてくる。
Opera de Lyonはこの作品には少し体に余分なものがつきすぎていると感じた。特に脚がこの作品の持つ神秘性を表現できないほどにもりもりとした筋肉で。中盤あの有名な裸体にただ赤いスカートを履いただけの場面では脚が隠れ美しかったこと。生と性と。エロス。

2作品目はHeart's Labyrinth. 1984年の作品だが初見だった。NDTのカンパニーの一人のダンサーが自殺するという衝撃的な事件をなんとか消化しようとした苦しみに溢れた作品。非常にナラティブな作品だった。見ているこちらにも迫り来る苦しみにかなり胸が痛くなったが、作品を作りながらだんだんとキリアンとカンパニーが苦しみから解放され、最期には希望の光をなんとかつかんだのだな、ということが感じられた。観ているこちらも救われる。終盤、白い衣装の場面は教会で天国へと送り出すセレモニーを観ているかのような。非常にキリスト教的な死の理解のように私には感じられた。苦しみからの解放。

3作品目、27'52''はギエムの公演でNDTのダンサーによって踊られたのを見た(@TCE)が正直そのときはあまり印象の良い作品ではなかった。
キリアンの後期作品というのは電子音楽を使った作品が増えるのだが、以前、ChaillotでNDT公演を見たときに、なんでこの時代のネオクラシックの振付家は結局こういう無機質なところに行き着くのかなぁと思いながら見た記憶があるのだけど(結局我々の愛するいわゆるキリアン的要素は弟子が受け継いでいて、さらに濃縮されていたのだった、キリアンの作品が老成と共に無機質になっていったのとはそれは反対のベクトルだった)、今日ふと思ったのだが結局なんだかやってることは「ダンサーは音符」と言ったバランシンの時代とそんなに変わらないのではと。音楽が電子音楽になって表現されるものも変わった、と。ただキリアンのはダンサーは音符、というよりは、音を受けた反応、というように感じられた。この作品でのOpera de Lyonのダンサーたちのすごかったこと。本領発揮といったところ。素早い動き、筋肉の躍動で電子音が肉になっていく。あれ、無機質と思ったけど終わってみたら肉感溢れる作品だったじゃないですか。Opera de Lyonの本質をここで見た気がした。NDTよりも肉感的で躍動的な身体。
Bella Figuraからこうして通して観て、「間」での身体表現はとても難しいものだしそのための身体はかなりクラシックな訓練を受けてないといけないのかなぁなどと考えた(ここのとこまだよく言語化できないけれども)。


[PR]
# by chihiroparis | 2015-10-15 14:54 | ballet+danse | Comments(0)

Boris Charmatz Les danseurs pour le 20eme siècle

f0008907_14492822.jpg
f0008907_14492009.jpg
f0008907_14491334.jpg
f0008907_14490637.jpg

Boris Charmatz Les danseurs pour le 20eme siècle

Charmatz はレンヌ・ブルターニュ国立振付センターのディレクター。オペラ座バレエ学校を経てリヨンのコンセルバトワールに学び、その後フランスコンテンポラリーダンスにおけるヌーベルバーグおよびNon-danseの潮流の旗手と呼ばれている。1973年生まれの若手で、オペラ座ディレクターのMillepiedとは友人だそうだ。(舞台に限らない)様々なシーンでのダンスを模索してきた
Charmatzの今回の企画は、ガルニエのあちこちを使って、観客にと交流ができるような近い場所で、20世紀の様々なダンスを振り返るというもの。ダンサーたち自ら作品について説明をし、小さなアンプで音を出し、自由な衣装(多くはスウェットや稽古着のようなものである)で踊る。
この企画が目指すものは、このような形式で踊ることで、「図書館でどうやって踊るの?」「ホール入り口では?」という問いを通し、言葉や動き、また、場所について省察を試みる、ということである。そしてこの上演方法を通し、いかにダンスの歴史が豊かで生き生きとしたものであったことかということを様々な場所で(再)発見しよう、と。脱コンテクストの試みということだろう。
実際に見てみた(というよりこれは「体験してみた」というほうが適切だ)ところ、これらは実現されていたという印象である。あるダンスがそのダンスが演じられるとされているはずである場所ではないところで、衣装も、距離感も違うところで演じられることで見る側には新鮮な驚きと発見があった。そしてそれは演じる側にも間違いなくあったという印象を受けた。いかに我々が固定された文脈とともに作品を見ているかということを再認識する作業でもあった。
とりわけ新鮮だったのが、廊下で踊られていたチャップリン、バリウッド、そしてまったく今まで見た形式とは違った瀕死の白鳥。
ダンサーにインタービューすることも可能だ。外のテラスで踊っていた若手ダンサーに、この企画をどう思うか?と聞いてみたところ、観客と交流ができるのは(普段と違って)非常に大きな喜びである、とのことであった。普段上演場所がかなり固定されているオペラ座にとってとても新鮮な企画だった。


[PR]
# by chihiroparis | 2015-10-15 14:50 | ballet+danse | Comments(0)

バットシェバダンスカンパニー Batsheva dance company DECADANCE

f0008907_14350251.jpg

バットシェバダンスカンパニー(イスラエル)DECADANCE
NDT、CND、オペラ座・・・世界中のトップカンパニーに請われる振付家、オハッド・ナハリン率いる今世界でもっとも熱いカンパニーとも言えるバットシェバの来日公演@愛知芸術劇場。私にとっては昨年12月にChaillotで見たNaharin's Virus以来。

今回のDECADANCE(DECA=ギリシャ語で10+DANCEの造語)はナハリンの監督就任10周年を記念した作品で、彼の作品の抜粋をつなげた、いわばベスト・オブ的なもの。脱コンテクスト化され、ひたすらその言語を楽しめる作り。今まで見たコンテンポラリーダンスのどのダンスとも違う圧倒的な独自性。これがナハリンの確立したGAGAダンスというメソッドによる身体だ。

バットシェバの魅力は、とにかく舞台を埋め尽くす体積だと思う。細い体から絞り出されるような心理的に迫る表現というものもあるし、空間支配が圧倒的な踊り、というときに、それが手足の長さと伸びやかさを使ったものもあるだろう。しかしバットシェバの踊りは、その体積が迫ってくるような踊りだ。内臓を外に出し、心が叫び...感じたリズムとともに体内の全てが放出され、身体が、まるで本来の体積以上の体積を持っているように感じられる。

技術的にこのことは実際にどういうことなのだろうと考えた。私が欧州で見てきた多くのコンテンポラリーにおいて、骨盤と背骨の関係が、程度の差はあれクラシックバレエの基礎である垂直関係から大きく崩れてはいない。エクにしろ、キリアンにしろ、オフバランスでバランスというクラシックに対しコンテンポラリーであろうとしたフォーサイスにしろ。このことは、自由な動きだと思われるものであっても、力学的に上半身と下半身の関係がある程度予測がつくということを意味するのではないか、と今回思った。というのも、ナハリンにおける身体は完全にこの”近代的”力学からは自由で、次の動きは予測不可能だ。要は、思いもよらない形をとるということである。これを、相当な速度で行う。そのことにより、ある程度軌跡が反復的あるいは予測可能範囲内でおさまる上記コンテンポラリーに比べ、不規則で予測不可能な軌跡が描かれ、これが速度により残像として残っているうちに次の思いもよらない軌跡がやってくる。このことで、見ているものは実際の体積以上の身体の体積を感じる・・・そのような印象を受けた。

面白いのは、1(uno),2(duo), 3(tera)...とカウントを増やしながらの踊り。クラシックでいえばエチュードのようなこの作品、1カウントに1動作が入り、カウントを一つずつ増やす動きが繰り返されることで、今度はこれらの残像が先取りされているような感覚に陥る。つまり、1,2,3,4...とくれば見ているものがすでに次の1に行っていて、脳内でぐるぐると動作がすでに軌跡になっているのだ。予測不可能と書いたけれども今度はそれを種明かししていくような仕掛けの魅力に酔った。

とにかくあと何回もみたい作品!とにかく動きを楽しめよ!とナハリンからのメッセージが飛んでくるかのような75分!


[PR]
# by chihiroparis | 2015-10-15 14:35 | ballet+danse | Comments(0)