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「ロミオとジュリエット」シュツットガルトバレエによるクランコ版/マリインスキーバレエによるラヴロフスキー版

最近の情勢に心を痛めつつ、平穏に劇場に通える状況に心から感謝をし、傷付いた人を想う。そんな中で見たシュツットガルトバレエによるクランコ版、マリインスキーバレエによるラヴロフスキー版「ロミオとジュリエット」。

誰もが認める名作マクミラン版50周年だからかしらないが、今年はやたらとロミオとジュリエットの上演が多い。マクミラン版もヌレエフ版も何度も見ているが、シュツットガルトによるクランコ版も抜粋を除き全幕は初見だし、その原典となったラヴロフスキー版も初見だ。

現在のマクミラン版につながるロミオとジュリエットの歴史は、ラヴロフスキー(マリインスキー)に始まる。プロコフィエフの音楽と各シーンの構成はこの版から全く変わっていない。
→クランコ(シュツットガルトをこれで一躍演劇バレエに優れたカンパニーとして有名にした)
→マクミラン(クランコの弟分で、英国ロイヤル)
→このマクミラン版の初演を踊ったヌレエフによるヌレエフ版(オペラ座)
となっているが1シーズンでいっきに見られる年も珍しい。3月のヌレエフ版が楽しみ。

写実性の発展という点を、ディアギレフによるバレエリュッスからみるのも面白いが、こうして一つの作品の変容を見ながら追うのも面白かった。
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舞踊言語の発展と音楽性の豊かさの関係を見ていくのにこのように一つの作品の時代の異なる版を追うのは本当に面白い。ラヴロフスキー版では基本的なパの組み合わせが多く、そこから音も古典的なパに対する使い方に制約されるため、音をまだまだ使い余している。(我々が現在様々な作品で見ている舞踊における豊かな音楽性というのは、舞踊言語の発達によるものが大きいということが確認できる。)そしてこの版においては演劇性はその他のところで追求しようとしているから舞踊と一体化していない。

これは一つの踊りの中でもだし、場面という、より大きなくくりにおいても言える。パダクシオンとそれ以外の踊りとが物語的には融合していない。いわゆる典型的な古典の形式である。踊りの部分で登場人物の心情を描くようになってきたのが、クランコ以降だと言える。すなわち、パダクシオンとパドゥドゥの役割の逆転というのがクランコあたりから起きてきたようだ。そして、「語れるもの」の幅の広がりを作ったのが(あくまでクランコを踏まえた)マクミランではないかと。
言ってみればラヴロフスキー版とクランコ版の(私の中での)絶対的な違いは、前者は「バレエを見るぞ」とこちらも形式にのっとらないと感情が読めない、後者はそうは思わなくても演劇を見ているつもりで見られるということだ。

それは、愛している、ということを表現するのには薔薇を100本用意するのですよ、と決まっている文化があるとすれば、100本用意してロミオが立っているといるのがラヴロフスキー版であり(古典バレエの言語。見る側である我々は愛の告白だとそのコードから感じ取る。コード共有が必要とされるだろう。)、薔薇を使うことなく「愛している!」と写実的な動きにより直接的に言うのがクランコ版である。さらにこれを進化させたマクミラン版は、写実的・直接的・あるいは現実的表現を通し、登場人物の心情を手に取るように感じさせるにとどまらず、没入感を作り出す。我々まで人を愛しているかのような感情を持たせるほどに作品に巻き込む力は、リフトによる舞踊言語の深化により実現されたものである。
マクミラン版がこの先100年でも200年でも演じられるだろう名作だということは私が主張するまでもないが、どこが優れているのかと考えたときに、この、形式的な舞踊言語(意味を共有して見る)から直接的・写実的表現への発展の後、比喩的、しかも「誰もがわかる比喩」の展開、があったことがポイントではないかと思う。先日のマクミラン版の中継幕間のインタビューで、初演のドナルド・マクレアリー曰く、マクミランは「ダンサーがダンサーらしいあの一番ポジション(足を外旋して立つ)で立つのを嫌がった」と、写実的・現実的であることを求めたエピソードとして語っていたことからもこれは伺える。
やはりこの最後の振り付けの発展(クランコ→マクミラン)が飛躍的。スケートが好きだったというマクミラン卿、困難を極めるリフトの多用も比喩的表現を高めている。「誰もがわかる比喩」はまた、長い歴史を持つバレエの一つの大衆化の形である。

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ヌレエフ版は、彼が初演したマクミラン版の影響を振り払おうと頑張った感がどこから来ているのか不勉強にてわからなかったのだけど、ラヴロフスキー版にかなり影響を受けていたのだなと理解した。ソ連時代の影響あろう。
ラヴロフスキー版も、それを踏まえたのであろうヌレエフ版も、若者にスポットをあてて二人の恋の悲劇にせずに最後に両家が手を取り合い融和を予感させるところまで描いているのが、非常にロシア的。(当局が話の終わり方に口を挟んだというエピソードには事欠かない国なわけで)
ティボルトの死んだ時のキャピレット夫人の描き方が、クランコ版ではジゼルでの狂気の描き方に似ていて、舞踊的な形式の踏襲が見られた(髪の毛が乱れふり乱す、服の前ボタンをはずし突然はだけることで狂気を表す)が、ラヴロフスキー版では、自らええいと髪をほどき、振り回す。そしてティボルトの乗せられた担架に同乗し(四人の男に担がれる)劇画調に荒れ狂いながら去っていく... と、この場面に限らず舞踊言語が非常に古典的で表現も様式的。いかにその後の版が写実的になっていったかわかる。ああそれから、なぜ甥のティボルトの死をそんなにもキャピレット夫人が嘆き悲しむのか、近親相姦的に描いた版がたまにあるのはなぜか、という点、演劇の人に聞いたところ、昔の上流階級ではおばに当たる人が最初に手ほどきをしたとかいう話も聞いた。シェークスピアのオリジナルはどうなんでしょう、そのうち読んでみないとと思いつつ。

様式的な動作の多いラヴロフスキー版を現代において見る時に壁となることとして、その後の写実版を知ってしまっているので、特にロミオの人物像がストーリーに乗ったやり方では描ききれていない感じがする。それよりは典型的なバレエの二枚目、もっといえばソ連的英雄的男性、という色合いが強い。
場面転換ごとに登場人物が暗転の前に見え切りをするのも面白い。歌舞伎に似ている。とにかく様式美重視。そんな版だった。それでも当時はその演劇性が画期的だったのだろうと推測する。

それから、群舞、特にキャラクターダンスが、古典のそれのままだった。全てはパドゥドゥに到達するための群舞、とマクレアリーが言ってたと思うが、古典におけるとってつけたような群舞だったものが、マクミラン版になると物語を進めるための強い「ストーリーの背景のようなもの」になっていたということだ。
今回原典まで戻ることで、マクミラン版の優れた点がどこにあるのか、演劇バレエと古典バレエの違いが、具体的にはどのような技術や構成にあるのかということがわかったような気がする。


by chihiroparis | 2015-11-30 20:24 | ballet+danse

主にバレエ評


by chihiroparis